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15 June

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16 October

Narcissus07:俺たちなりの愛のカタチ

※BL※




 沖野とは、あれ以来も今まで通り話せている。けれどやはり、他の誰かと二人きりでいると睨んでくる彼の気持ちが全くわからない。
 わからないことを放っておく質ではないし、何度か聞こうとも思った。
 けれど、いざ本人を目の前にすると急に言葉が出てこなくなって「呼んだだけー」なんてふざけるばかり。
 自分にとって一番大切な親友はエコ丸――杉江であって、沖野ではない。先日の一件で、彼も大事な友人に昇格はしたけれど、それは日野川も同じ。
 その日野川には、相変わらず軽口を叩けるし、杉江のことでちくちくと悪態をつくこともある。
 沖野にだって軽口を叩くくらいはできる。だというのに、いつの間にか些細な問いかけができなくなる程の見えない壁がそこに出来上がっていた。
 
『俺の事好き?』

 そんな取り留めのない問いが、どうしてか沖野にだけできない。白黒ハッキリさせたいだけなのに。

「ほん……っと、なんなの。今までこんなこと無かったのに……やだー、わかんない感覚気持ち悪いぃ」
「はぁ~、沖野くんとそんなことんなってたの」

 ポテトをつまみながら、杉江が平静を装った風に相槌を打つ。が、動揺は十分見て取れる。
 日野川の自宅近くのファストフード店に連れてこられた時は二人で聞いてくれるものかと思ったが、実際のところ単にバイト先に近いから、というだけのようで、当初の予定通り机を挟んだ向こうにいるのは杉江ただ一人。もしかしたら、ポテトを咀嚼しながら「やっぱり日野川も連れてくればよかったかな」なんて思っているかもしれない。

 精神的に、友達に寄りかかれるようになっていたのは不幸中の幸いかもしれない。
 近頃様子のおかしかった別府に、杉江はバイト前の時間でよければ話を聞くと持ちかけてくれた。ついこの間までなら平気な顔で断っていたけれど、今回は少し勇気を出してお言葉に甘えてみた。
 まだ何の解決策も出ていないというのに、吐き出しただけで少し楽になるのだから人の心は思っていたよりタフに出来ているのかもしれない。もっと早くに知りたかった。

「エコ丸はどう思う?」
「整理させて。沖野くんのお姉さんは、沖野くんがべっぴーを好きだと言った。でも池田くんは沖野くんがべっぴーのことを特別好きなわけじゃないと」
「まあ、要約すればね」
「そんでべっぴーは、沖野くんが自分を好きかどうかわからなくて、ずっと悩んでる」
「うん」
「……で、それをどうして本人に聞かないの?」
「それがわかんないんだよねぇ。だから余計にもやもやするっていうか気持ち悪いって言うか……」

 うんうん唸る別府の正面で、杉江は眉をひそめて氷だけの紙コップを軽く振る。
 言いづらそうに「あのさ」と切り出せば、別府は首を傾げて、しかし口だけは閉じて杉江に視線を向けた。

「べっぴーはさ、どうあってほしいの?」
「どうあって?」
「沖野くんに好かれてたいのか、普通の友達だと思われてたいのか」
「……? 特に考えてないけど」
「本当に?」

 念を押すような杉江の物言いに、別府はぞわりと産毛が逆立つような感覚を覚えた。何か、刃物を突きつけられたかのような、しんとした恐怖じみた感覚。

「それを直接聞けないのはさ、べっぴーが――」
「ほら、やっぱ栃一の制服だよ! 男子だって!」

 杉江の台詞を遮ったのは、きんきんと耳に障る甲高い女子の声だった。栃一――杉江と別府の通う栃木第一男子高校の略称に、思わず二人揃って視線を向ける。
 声の主だろうはしゃいだ女子は、二人の視線に気付いて恥ずかしそうに俯くもう一人の腕を強引に引いて別府たちの元へとずかずか歩み寄る。
 他の客の視線も集めておきながら、随分と堂々とした立ち振る舞いをするものだ。連れの常識を弁えていそうな女子に対して同情を禁じえない。

「すいませ~ん、一緒していいですかぁ?」

 別府と違って随分はつらつと語尾を伸ばす女子は、二人の返事もろくに聞かずに杉江の隣に腰を下ろした。
 置かれたトレイには二人分の飲み物とポテトが乗っており、困惑する連れの女子に向かいに座るよう言葉を用いずに威圧しているようだ。
 おろおろと困惑していた方の女子は、彼女に押し負けるように頭を下げて小さく「すいません」と謝ってから別府の隣に座った。
 呆然とする別府と、目を見開く杉江、そして自らが巻き込んだ大人しそうな恐らく同級生を置いてけぼりにしながら、杉江の隣に座った女子は喋り始めた。それも、舞台の主演女優でも気取っているかのように声を張って。

「急にごめんなさぁい! 他に二人で座れる席無くって~、ね?」
「あ、う、うん……」
「あー……そしたら俺たちもう店出るんで、ごゆっくり――」

 あからさまに引いている杉江が、それでもなんとか言葉をオブラートに包んで逃げ出そうと別府に視線をやった。即座に気付いた別府の横の彼女は改めて鞄に手をやり、帰り道を作ろうとした――のだが。
 大きな手振りで「待って待って!」と、友人を含めた三人を改めて座らせた。
 別府の中で、小さく苛立ちが募る。

「えっとぉ~……実は、そっちのイケメンさんがカホと仲良くなってくれたら嬉しいなって」
「ちょ、ももちゃん!?」

「ももちゃん」と呼ばれた騒がしい方の女子は、「カホ」という名前らしい弁えている美人が顔を赤くして制止するのも聞かず、べらべらと語り始めた。やはりその仕草は何かを演じているかのようで胡散臭い。

「実はぁ、この子この前失恋したばっかで……他にいい人探せって言っても煮え切らないんですよぉ」
「だ、だから、別にいいんだってば……」
「またそうやって無理して! 大丈夫、カホ可愛いんだからすぐに新しい恋が見つかるよ! それで、お二人って彼女とかいます~?」 

 単刀直入に言って不愉快でしかない。
 下手な三文芝居を目前で繰り広げられていることもその台詞回しもそうだが、何より主演女優の大きな身振り手振りで何度も腕を攻撃されている杉江があからさまに困っている。
 見ず知らずの誰かが、自分の大切な親友にそんな顔をさせることに腹が立って仕方なかった。

「……くっだんな」

 だから、思わずそう零したのは罪ではないと、自分では思っている。
 カホがどんな顔をしているのかは見えないが、少なくともテーブルの向こうの二人は硬直して顔を引き攣らせている。
 近くのテーブルの客たちも耳を傾けていたのか、凍りついた空気に巻き込んでしまったようだ。辺りから一切の会話が消えた。
 知ったことか。勝手に喋り倒したお前と、勝手に聞き耳を立てていたお前らが悪い。

「こっちの子の為とか言ってるけど、そう言ってお節介焼いてる自分に酔ってるだけなんじゃないの?」
「そ――そんなことないですよ~?」
「いやいや、だって本当にこの子の為だってんならここまで困ってるのに見ず知らずの他校の男子と強引に相席とかしないでしょ普通。そもそも初対面の相手に、しかも周りにも聞こえる声で失恋したばっかとか言いふらして。無神経にも程があるんじゃない?」
「ちょ、言い方……もうその辺にしときなよ」
「ああ、それとも何? 『友達の為に頑張れちゃう私』をそっちのあんた好みの方にアピールしたかった? そっちもそっちで、ボディタッチ狙ったのかもしれないけど接触事故が迷惑そうだったよ」
「やめなって!」

 別府の歯に衣着せぬ指摘に、杉江が慌てて止めに入る。が、別府は攻撃をやめなかった。
 結果、語尾を強めた杉江の声とほぼ同時。その隣の女子はテーブルを叩いて立ち上がり、不機嫌を顕にした真っ赤な顔で別府を睨みつけると、トレイも友達も置き去りにして足早に店を出て行った。
 少しずつ店内が音を取り戻すが、呆然とする杉江とカホも、無音を作り出した別府さえも黙り込んだまま。

「ご……ごめんなさい!」

 残された沈黙を打ち破ったのはカホだった。

「いきなり色々ご迷惑かけて本当にすみません! ただ、その……ももちゃ――あの子、悪い子じゃないんです……」
「……君は被害者でしょ、別にいいのに」
「その……元々は、あの子の言う通り、私が失恋したのを慰めようとしてくれてて」

 失恋、というワードに杉江が反応したのを視界の端に捉えた。そういえば、さっきもそんな話題が出た時妙な顔をしていたか。
 ちらと視線をやると、そわそわと落ち着きのない様子を見せていた杉江が、恐る恐るカホに声をかけた。

「あの……不躾なのは重々承知なんだけど……失恋って、やっぱりつらかった?」

 何故そんなことを聞くのか。別府も勿論、カホも初対面の相手からそんなことを聞かれるなんて思ってもいなかったようだ。
 かと言って、杉江も杉江で興味本位で聞いているわけではないらしい。元よりそこまで人の気持ちを考えられない人間ではないし、いつになく真剣な表情を浮かべている。どこか不安気ではあるけれども。
 カホにも、杉江の神妙な面持ちでそれは伝わったようで、律儀にも問いに答えてくれた。

「……一ヶ月と、少し前なんです。中学からずっと片想いしてて、どうしようもないくらい好きで……正直、だめな気はしてたんですけど、やっぱり『ごめん』って言われた時はちょっと泣きそうでした。ただ、まだ吹っ切れたとは言えないんですけど、少しずつ整理はついてきてます」
「そっか、変なこと聞いてごめんね。俺が言うことじゃないと思うけど、いい相手が見つかるといいね」
「あ、は、はい! もっとちゃんと、私を想ってくれる人を探します」

 最後に見せた笑顔は、やはり男二人が見とれるには十分なほどに綺麗だった。
 カホは一切手のつけられなかったポテトを「お詫びにどうぞ」と一言添えて店を出た。先に出ていった方を追いかけたのだろう。

「はー……いい子だなぁ……」
「え、何? 浮気は許さないよ?」
「何でべっぴーが彼氏みたいなこと言うの? ていうかしないよ、違うよ……さっきの子、ポテトくれた人……」

 カホを指した言葉を連ねて、杉江はぴたと黙ってしまった。
 余程言いづらいのだろうか、続きを待つ別府の顔をちらと見て、それでも口は噤んだまま。
「何?」と催促して、ようやく口を開けば。

「日野川に、告ってた人……」

 いつぞや、教室で日野川を血祭りに上げる会が発足されたときのことを思い出した。今目の前にいる、現・日野川の恋人が「日野川に彼女ができた」と発言した騒ぎだ。
 つまり、目の前の男は「俺の彼氏に振られた気分はどう?」と訊ねる最低の行為をしたわけではなかろうか。

「ほんとお前が言うことじゃなかったよね」
「誤解を生みたくないから言うけど、別に面白半分に聞いたわけじゃないからね。あの子が立ち直れないくらい落ち込んでるなら……まあ、直接謝るのも追い討ちかけるだけだろうからしないけど、ちゃんとそれも背負って生きてかなきゃって思ったんだよ」
「ああ、そういう? 向こうは知らないんだから別にいいんじゃない? エコ丸を選んだのは日野っちの意思なんだし」
「そうかもしれないけど~……」

 顔を覆う両手でくぐもった声は、別府の意見に賛同しきれていないと訴えた。

「べっぴーこそ、よく初対面の人にあんな言い方できたね。もう少しオブラートに包んだ方がよかったんじゃないの?」
「それこそ別によくない? 思ったこと言っただけだし、あの人にどう思われようと知ったこっちゃないし」

 貰ったポテトをつまみながら、慈悲も情けも容赦もなく吐き捨てれば、再度現れた杉江の顔は困ったように笑っていた。既に顔すら忘れつつあるなどと打ち明けたら一体どんな表情をすることだろう。
 しかし意地が悪いのは、何も別府だけではなかったようだ。
 杉江はその困り笑いをいつの間にやら含み笑いに変えていた。

「じゃあ、何で沖野くんにはハッキリ聞けないんだろうね?」

 ぼそっと。
 別府が言葉に詰まるなり、追い打ちをかける。

「いつもべっぴーが歯に衣着せぬ物言いしたり、気になったことをストレートに聞くのってさ、それがその後の関係性に影響しても別に気にしないからなんだよね?」
「……オッキーはもう、友達だし。嫌われたくないし」
「沖野くんはべっぴーのこと嫌いじゃないよ。嫌いな人間にわざわざ構いに来るほど大人じゃないじゃん。それに、聞きたいのは『好きか嫌いか』じゃなくて『恋愛対象か否か』でしょ?」

 そんなのはわかっている。

――わかってて、なんで聞けないの?

 頭に浮かんだ疑問を、杉江は言いたいのだと直感した。そして、その先も……

「エコ丸」
「なーに?」
「時間」
「ん? ……ひえ、やばいもう行かなきゃ」
「俺はポテト処理したら帰るよ」
「うええもっと突き詰めたいぃ。けどごめんまた明日、気を付けて帰るんだよ!」
「エコ丸もねー」

 ポテトをむしゃむしゃと口に詰めて杉江を見送る。
 さっきのこともあるしなんとなくここにいたくなくて、とっとと片付けて帰りたかった。
 杉江の言いたいことを察して混乱しているのだ。

『沖野くんのこと、好きなんじゃないの?』

 そんなのわからない。愛されたいとは思ったことがあるけれど、恋なんてしたことない。杉江以外にちゃんと友達ができたのだって、今までそうだと思っていた上っ面だけの関係を含めないのなら初めてのことだ。
 恋って何? 友達と何が違うの? 俺は本当にオッキーのこと好きなの?
 新たに生まれた疑問は誰にも相談できる気がしなくて、ぐるぐると頭の中で回っては胸を締め付ける。
 ただ、その時既に「オッキーに俺の事好きかどうか、どうして聞けないの?」なんて疑問は消えていた。
 
 
 
 
 
 ということがあったのが三日前。
 中間試験同様、沖野が日野川に勉強を教わろうと頼み込んで断られたのが昨日のこと。父が永年勤続の長期休暇で家に帰ってきたそうで家に上げられないのと、それに合わせて今日から父方の実家に連れて行かれることになったのが理由だ。
 杉江はといえば、日野川同様「今回は都合が悪い」と断った。別府にこっそり耳打ちして教えてくれたのは、やはりバイトがあるからという理由だった。目標金額を目前にして、ついテストのことを忘れてシフトを多めに設定してしまったそうだ。
 そしてそのお鉢が回ってきたのが特待生の別府というわけだ。

「多分姉貴がうるせえけど気にすんなよ」

 日程調整の折、場所について相談する前にそう注意された。別府の家庭事情を気遣ってか、最初から自分の家に招くつもりだったようだ。
「気にしないよー」と返しつつ、ファーストフード店での会話が頭をちらついて、そちらの方が気になって仕方なかった。

 来てみれば姉も兄も出かけていて、予想外に静かだった沖野の部屋で勉強を教える傍ら、冷静にゆっくり考え直してみた。
 仮にコレのことが好きだとして、どこをどう好きになったのか。
 目の前で英語の教科書と睨めっこしている顔は別に好みではない。例のひどい寝惚けに巻き込まれた時は確かに男前だとは驚きはしたけれど、「あらイケメン」と感心したところで、それだけで恋に落ちるというものではない。というかそもそも、別府には好みの顔という概念が無い。

「えちょー……」
「エコーね」
「エコ?」
「エコ丸じゃなくて。オッキー、神話は知らなくても音が響く『エコー』くらいは知ってるよね?」
「あーそれか! 仕方ねえだろ、身近にエコがいるんだからそっちが先に出てきてもよ」

 この通りバカだし。
 教科書の長文問題だ。英語が読めなかろうが、まともに授業を受けていれば分かる筈なのに。というか、「Echo」くらい授業中基本寝ている杉江でさえわかるというのに。

「ていうか、エコーとナルキッソスの話ってギリシャ神話の中でも知名度高い方だと思うんだけど」
「俺無神論者だから」
「そんなだから倫理のテストで赤点取るんじゃないの」
「やめろ! 上二人がいつ帰ってくるかわかんねえんだぞ!」

 他のクラスメイトと変わらない、「同年代の男子」。違うことなんて、杉江にさえ黙っていた秘密を話してしまったことと、体の関係も無いのに部屋に泊まったことくらいか。
 あとは、家族が賑やかで、あったかくて、羨ましいと思ったくらい。
 そんなので恋に発展するものか。自分か沖野が女であれば、その羨ましい家族は結婚すれば自分の家族にすることもできるけれど、生憎男同士でそれができるほどこの国は進んじゃいない。
 やはりそれらしい理由なんて見つからない。きっと勘違いだったのだ。

「ついでにこっちの『ナーキッスス』って何だ」
「『ナルキッソス』。水仙のことだけど、この神話の中じゃこのクッソ性格悪いイケメンの名前だよ」
「お前こいつに恨みでもあんのかよ」
「だって別にエコーも迷惑かけたわけじゃないじゃん、なのに暴言吐いて悲しませて消えさせるとか。エコ丸の敵は俺の敵だよ」
「お前さっき自分でこいつはエコじゃねえっつってたじゃねえか」
「エコ丸のこと抜きにしたって嫌いだよ、こんな奴」

 何の因果か、こんな日に教えるのが憎き、と言っても過言ではないナルキッソスの話。
 沖野も勉強に飽きる頃だろう。また、少し昔の話をしようと思う。
 なんてことは無い、年齢制限の必要さえ無い中学生の頃の話だ。

「中学の時、塾で先生が余談くらいに軽く教えてくれたんだぁ。こいつ、色んな神やら女神やらに愛されてたクセに、プレゼントを侮辱したりエコーにしたみたいに『退屈だ』とか言って悲しませたり。ひどいと思わない? 俺は身を切り売りしてやっと愛してもらえたってのに、こんな奴は何もしないでも愛されて、そのくせそれを全く有難いとも思ってないんだ……っていう、まあ嫉妬みたいな?」

 自嘲気味に笑って見せれば、沖野も同じように思ってくれるのではないか、なんて。
 が、視線をちらと上げてみれば、そこにあったのはさも残念なものを見るような不細工な顔。

「ちょっとー、何その顔?」
「お前その卑屈なの何とかしろよ、腹立つな」
「えっ今俺が腹立てられる要因あった?」

「腹立つ」と言う割にその表情はどこか優しくて、また胸の奥がざわついた。
 なんで、どうして。その疑問が何に対して向けられているのかさえ、もうわからない。

「お前が言ってる『愛されたい』だの何だのは別に愛だ恋だの話じゃねえんだろ」
「うーん……そうなのかな?」
「そうだろ、エコに友達だって言われて援交から足洗うぐれえなんだから」

 考えたことが無かった。見ず知らずの誰かに抱かれることも、可愛い弟に「兄ちゃん大好き」と言われることも、杉江や日野川から「友達」だと言われることも、全部等しく「愛されること」で。そこに「恋」だとか「友情」だとか、細かくジャンル分けしたことなんて無かった。多くの愛は身体を重ねている間の一時的なものばかりだし、それが必要なほど常に愛されているとも思っていなかったから。
 ひとつひとつの感覚が違うのだと思い知らされる。やはり、彼は温かい家庭に包まれ、友達に囲まれ、時には愛の告白なんかもされているから。
 杉江とはまた違うけれど、沖野も愛されている人なのだ。受け取る愛を「恋」だとか「友情」だとか、細かいジャンル分けをする必要があるほどの。
 自分に無いものを持っている沖野が羨ましい。

「だったらもう、ナル……なんとかに嫉妬とかする必要ねえだろ。いつまで愛されねえキャラ演じてんだよ」
「ナルキッソスね。えー別に演じてないし」
「あ? んだよ、俺らに愛されんのは不満ってか?」

 ひゅ、と息を呑んだ音は聞こえてしまったろうか。
 いや、大丈夫そうだ。沖野は不服そうな表情のまま。気付かれないように深呼吸をして、「へへー」と間の抜けた笑い声を返す。
 誤解をしてはいけない。今、沖野は「俺ら」と言った。それに、話していたのは「友情」というジャンルの愛だ。
 だから騒ぐな、騒ぐな。折角つい今し方「勘違い」だと決着をつけたのに。鼓動でそれがぐらついてしまう。

――ぐらつくくらいなら、いっそ壊しちゃえばいいんだ。

 頭の中で自分の声が響く。
 そうだ、まだ間に合う。本当に好きになる前に、勘違いで済ませられる今のうちに。

――だって君はどうせ、俺を好きにはならないんでしょ?

「やだー、俺オッキーに愛されてるんだ照れるー」
「俺だけじゃねえっての」

 心にフタをして、半自動的に放った台詞には、大凡予想通りの反応が返ってきた。
 心臓をぎりぎりと締め上げられるような気さえする。しかし、これではっきりさせればすぐに解放される。沖野が自分を恋愛対象として見ていないことが確定すれば、こんな気持ちの悪さは消えてなくなる筈だ。今だけ辛抱すればいい話だろう。

「えー、だってオッキーさあ……最近、俺がエコ丸たち以外の誰かと話してるとめっちゃ睨んでくるじゃん?」

 平然と笑っているのが面白いくらい、心音がうるさくて仕方ない。口から飛び出そうだ、なんて本気で思うくらいにこの臓器をこんなに強く認識したのは初めてではないだろうか。
 一方で、自分とは逆に表情を隠すのはへたくそな沖野を一瞥する。全く動揺した様子を見せない。

「そりゃお前……たりめーだろ」
「って言うと?」
「お前がまた誰彼構わずヤりに行くってんなら止めねえとだろ? お前の数少ねえ友達なんだからよ」

 成程、聞いてみればあっさり解決してしまった。
 沖野はやはり、嫉妬の眼差しを向けていたわけではなかった。ただ友人の一人として、彼なりの道徳から外れる行為をしないよう、心配してくれていたらしい。

 嫌味っぽい物言いのくせに、普段はもっと自己中心的に振舞うくせに。
 どうしてそんなに優しく笑うの?
 どうして、君がそう言うように大切なお友達の一人だと思わせてくれないの?
 鼓動はすっかり治まった。だと言うのに、胸がさっきよりずっと苦しくて、呼吸だって意識しなければままならなくなりそうだ。
 ああ、馬鹿なのは君より俺だった。勇気を出してもっと早く聞いてしまっていたら、ここまでなる前にわかっていたら――
 後悔を含めた息苦しさに苛まれ、別府は半ば自棄になってだめ押しの問いを沖野に投げた。

「なんだ、オッキーが俺のこと好きなんだと思ったのに」

 最後の希望だ。ここで小気味良く「そんなわけあるか」と吐き捨ててくれたら、まだ「そりゃそうだ」と笑えると信じて。
 そうじゃないと。

「んなわけあるか、何遍言わすんだよ、俺ぁ女子が好きだ」

 予想通り、希望通りの答えだった。
 そりゃそうだよね。知ってるし。耳にタコができそうだよ。その割にモテないんだよね。
 こちらの返す言葉だって何通りも用意していた。
 けれど、口から出たのはそのどれでもなく……――

「……ほら、俺はやっぱり愛されないキャラだよ」

 自分自身に現実を突きつける、温度を失った声だった。
 今の今まで演じられていた「別府望」がどこかへ行ってしまった。
 こんなの知らない。殴られたわけでもないのに痛い。蔑ろにされたわけでもないのに悲しい。
 とっくに手遅れだったようだ。
 湧き上がる感情に、表情も、骨も、内臓も、身体が全て引っ張られる。
 こんなに苦しいことが恋なら、こんなにつらいことが失恋なら、ずっと身体を売って得られる相応の愛だけで充分だった。
 それさえ奪っておいて、ああなんて残酷なことだろう。
 いつもみたいにやかましくバカみたいに、他人のことなんか気にせずに生きててくれれば、こんな想い知らなくて済んだのに。
 そうすることが当然のように傍にいることを認めて、普段厚かましいくらいのくせに時々優しくして、別に好きでもないくせに守ってくれようとして、もっと愛される権利が当たり前にあると教えてくれたから。
 もっと欲しくなってしまった。もっと与えてほしくなってしまった。他でもない、君から。
 最悪のタイミングで自覚してしまった。いや、本当はもっと早くにわかっていたんだ。
 この「愛」のジャンルは、「恋」だ。

「俺は、オッキーが好きなのに」

 沖野の顔はまだ笑っている。
 嘲りだとかではなく、意味を理解しきれていないようだ。写真を立体的に映し出しているような静止画を、別府はただ見ていた。
 硬直した沖野を中心とした沈黙は、あの日の電車の中を彷彿とさせる。
 だとすれば、動き出すのもそろそろか。

「……何つった?」
「オッキーのことがね、好きなんだよ、俺」

 いつも言っているくせに。男に告白された時にそれを断る常套句にしているのだって知っている。

『俺は女子が好きだ、野郎に興味はねえ』

 多少言い方に差こそあれど、意味は大体そんな感じ。数分前にもそう言ったばかり。
 そのくせ、このタイミングで別府にもう一度それを言わないのは、恐らく同情に類するものを持っている為。
 自分に向けられたそれが、ろくに愛を知らない、識別できない別府が、生まれて初めて自覚した恋心だと沖野は知っているから。
 別府はそれを優しさであると受け取った。
 池田は、沖野が好かれる理由として別のものを挙げた。けれど別府はやはり、沖野のとてもスマートとは呼べない間違いだらけで雑な優しさが好きだ。優しくて、甘くて、そんな所に付け込もうとする自分は汚くて、ナルキッソスなんかより大嫌いだけれど。

「オッキーが男に興味無いのなんて知ってるよ。だから苦しい、でも好きになっちゃったんだよ」

 三日前に会った女子――カホのことを思い出す。
「どうしようもないくらい好き」だと言った相手に選んでもらえなくて、それでもなるべく前向きに生きようと笑っていた彼女。
 あんな風に気高く生きられたらどんなに良かったろう。
 けれど、別府は彼女のようにはなれない。もっと意地汚く、どんな手を使ってでも選ばれたい。
 唯一知る、愛される為の術はきっと通用しないけれど、それでも……――

「ねえオッキー、俺のこと、抱いて……?」

 目を見開いた沖野が瞳の中でぐらりと歪む。
 余程酷い顔をしていたらしい、困惑する彼が独りごちるのが聞こえた。

「……何つー顔してんだよ」

 そんなのこっちが聞きたい。
 つらいことなんて沢山あった。けれど、こんなに張り裂けそうなほど痛くてつらいことなんて今まで無かった。
 杉江が、唯一の親友が自分より日野川を選んでも、それが幸せならと喜んで身を引いた。
 それなのに、沖野が他の誰かを選ぶ未来を想像することができなかった、したくなかった。
 沖野が自分を好きだと聞いて嬉しくなった。それが勘違いだと言われて残念だと感じた。けれど、また思わせぶりなことをされてわけがわからなくなった。今更になって、あれが期待というものだとわかった。

「最初は抵抗あるかもだけど、その辺の女より俺の方が絶対上手いし気持ちよくするから、だから……」
「……はぁ、落ち着けよ」
「ねぇお願い。何なら全部俺がやるよ、オッキーは動かなくていいから――」
「なあ、それやめろ」
「だって俺にはこれしか無いんだよ!?」
「それやめろっつってんだよ!!」

 しんと静まり返る。
 俯いたらその瞬間に涙が零れてしまいそうで、じっと沖野を睨みつけた。
 身体を使う以外に愛してもらう方法なんて知らない。だからそれを否定されたことが、自分の全てを否定されたようで悲しい。
 だと言うのに、どうして君まで泣きそうな顔をしているのだろう。

「お前本気で思ってんのかよ。ヤらねぇと愛されねえとか」
「……それでも愛されないことがあるのも知ってるよ」
「そうじゃねえ。他の方法はねえのかって」
「あるんだろうね、他の人たちには」

 ぐっと沖野の顔が顰められる。不機嫌そうなその顔は、まだ悲しみの色に染まっていた。
 先日の杉江もそうだが、悲しませたくない人に限ってそんな顔をさせてしまう自分が憎らしい。

「……お前の昔の話、聞いたところで理解出来たもんじゃねえ。俺が知るのは今のお前だけだ」
「そりゃ、オッキーと会ったのは今年だもの」

 知っていたのはそれより前だけど。
 何度か名前を聞いたことがあった。それでちらと顔を見に行ったこともあったけれど、やっぱり好みでもなんでもなくて。
 それがまさか、こんなことになるなんて。

「だから、嫌なんだよ。お前がヤる以外に他人から愛される価値無いとか言うの」
「だって、ずっと俺を愛してくれた人たちはそれだけを褒めてくれた」
「単にそれだけが目当てで、それしか見てなかっただけだろ。お前言ってたろうが、散々エコが自分のいいところばっか見て褒めてくれたって」
「うん、すごく嬉しかった。初めて、友達になってくれるくらい俺のいい所見つけてくれたから。でもねオッキー、俺はオッキーに友達として愛されたいんじゃないんだよ。俺のこと、恋愛対象として見てほしい」
「――会話が成り立たねえ」

 頭をがしがしと掻き毟る沖野に、胸がずきりと痛む。
 笑ってほしいのに悲しませて、愛してほしいのに嫌われる。ままならないこの世界に吐き気すら催す。
 それでも、どうせ好きでもないくせに、突き放せるくせに、なんとか意思の疎通をしようと容量の少ない脳を頑張って稼働させる君を、やすやすと諦めたくはない。

「……中学の頃の友達、今彼女がいる。元々部活で意気投合して、一緒に騒げる友達くらいに思ってたらいきなり告白されたらしい。池田は中学ん時、同じクラスの女子が好きで、すげえ美人で、頭も良くて明るくて、話したのも一年で三回程度だったけど今でもたまにその時の話する」
「……オッキーの話はしないの?」
「……聞きたくねえだろ」

 鼻の奥がつんとした。

「別に恋愛感情が必ずしも性欲と結びついてるわけじゃねえんだよ、友達として良い奴と思ってたらある日を境に彼女になったり、遠くから見てるだけでも好きになってたり。だからお前だって――」
「オッキー、違うんだよ。俺と彼女たちは決定的に違うんだ。俺は異性に好きになってほしいんじゃない。オッキーが好きで、オッキーに好きになってほしくて……でも、俺は男で、見た目や性格だけじゃ、オッキーに……好きになんて、なって……もらえないん、だよ……」

 知っているからこうして言い争いに発展したというのに。改めて自らに現実を突きつけた結果、遂に最後の一線が決壊した。
 あの日から変わってしまった。
 たった一人の親友の存在だけで満足していれば。彼の幸せな姿に自分も幸せな気持ちになる日々が続いていれば。少しずつ増えた友達を、「その他大勢」として関わるだけでいられたら。
 苦しい、悲しい、虚しい。
 父に愛されなかった。祖父に愛されなかった。幼稚園や学校では腫れ物扱いされて、「あの子と関わっちゃだめ」なんて声も何度も聞いた。それが当たり前だった。
 初めて人に、男の人に愛してもらう方法を知って、たくさんの人に愛してもらった。可愛いと、気持ちいいと、天使だと、称賛の言葉を数えきれないほど貰って、すごく幸せだった。
 それをせず、愛してもらえたことなんてなかった。
 唯一だ、唯一なのだ。身体を開くことだけが愛される唯一の方法なのに。
 拒絶された。好きになってほしいのに、好きになってもらえない。いっそ心まで欲しいなんてわがままは言わないから、形だけでも充分だから。
 それでももう、叶わないと薄々勘づいていた。
 どうせ実らない初恋なら、せめてもっと苦しくないような気持ちを与えてくれればいいのに。
 ナルキッソスに顔でも似ていたのだろうか、随分と神に嫌われているものだ。無神論者のくせにこういう時ばかり神のせいにする自分を嘲るものの、それを泣きじゃくる顔に出せる余裕は無かった。

「俺はさあ、小さい頃こそ嫌な役割を押し付けられたけど、中学に上がってからは幸せに生きられてたと思うんだ。だから、自分が不幸だとか、あんまり思ったことなかった……けど、今は……女に生まれなかったことが、悔しくて仕方ないよ……」
「……お前、幸せだと思ってんのかよ、あれを、本気で」
「……? だって、欲しいものをくれる人たちと会えたから」

 触れられるとは思っていなかった部分に触れられ、馬鹿正直に答える。涙でちゃんと顔が見えないけれど、見たい顔をしているのではないと、なんとなく察した。
 今しているのはそんな話じゃない。どうして沖野がそんなことを聞くのかわからない。
 またすぐに戻ると思っていた話は、しかし別府の思惑とは裏腹に話題の中心であると部屋に居座った。
 否、別府が気付いていなかっただけなのだ。沖野はずっとその話を、別府望という少年の尊厳の話をしていた。

「ふざけんなよ」

 小さく吐き出された声は、それでも燃え盛るような怒りを湛えているのだとわかった。
 なおも涙の溢れる双眸を沖野に向けると、腰を挙げた彼の手がすぐ目の前に迫っていて、胸ぐらを掴まれたのに気付いたのはその一瞬後だった。
 目を見開けば少し視界が開けて、間近で自分を睨む沖野が怒りに顔を歪めているのが漸くわかった。その瞳の奥で、残っていた悲しみが炎に巻かれていることも。

「さっきから聞いてりゃ……お前俺のこと好きなんだろ? ならまず俺の話聞けよ」
「聞いてるよ、聞かれたことにも答えたでしょ」
「そういうことじゃねえんだよ!」

 言外に「黙れ」と言われた気がした。

「お前頭良いんだろ? 何でわかんねえんだよ、エコだけじゃねえ俺も宰もお前のことが大事で、だからお前にもっと自分を大事にしてほしいんだよ」
「……言い返していい?」
「……んだよ」
「前にも言ったけど、俺に自殺願望は無いし、自殺未遂も自傷癖も無いよ」
「……だから会話になんねえっつってんだ」

 もう一度口を噤む。
 きっとこの先、沖野は別府の生き方を、その半生を否定する。
 多分誰にもされたくないことだ。杉江にだって、そんなことを言われたらまた平手打ちをくれてやったかもしれない。
 なのにどうしてか、沖野の言葉を止めようとは思わなかった。

「お前いつも言ってんだろ、顔が良いって。特待生で頭もいいじゃねえか。エコに過保護なのは正直引くけど、それだって友達思いってことだろ? 家族の為に、ガキの頃からずっと色んなもん我慢して、それでもつらかったなんて言わねえで。俺なら多分逆恨みする。けどお前はそんなことしねえで、母親も弟も大事にして……たまにすげえ腹立つけど、お前とふざけてんのだって、その……楽しいんだよ……小中の連中が家の事で偏見持ってただけだ、別府はすげえ奴で、いい奴で……友達になれて良かった」

 いつもなら「オッキー自分が恥ずかしいこと言ってる自覚ある?」なんて言ってやったが、それができないくらいに顔が熱い。好きな人から褒められることがただただ嬉しくて、同時に照れくさい。

「お前、自慢できる所いっぱい持ってんだよ。充分すげえ奴なのに、見ず知らずの奴らに自分を安売りしやがって……平気なフリしてて、本当はつらかったって言ってくれりゃまだ良かった。けど、それが幸せだったなんてふざけんな。性欲処理の道具に成り下がって、そんなのが幸せなわけねえだろ」
「価値観の問題だよ」

 言い返すと言うより、解答欄を埋めるような気持ちで返した。
 事実だ。沖野や杉江、きっと日野川も、いるだけで何人かは愛してくれる人がいる人間。一方で、別府は何もしなければ誰も愛してくれない人間。
 若くして愛してもらえる方法を知れて、それを実践し、確かに愛を得たのだから、それは自分にとって幸せであり、そこに嘘はない。
 その正解は、沖野の気には召さなかったようだ。胸ぐらを掴む手に力が入る。


 皮肉にも、感情を乗せた言葉の数々より、淡々とした答えが何より大きく二人の未来を変えた。

「ならお前の価値観を俺が変えてやる! ヤらなくたってお前の欲しがる愛ってやつが手に入るって証明する。そんでもって、お前が今『幸せだった』っつったもんが全部地獄だったと思わせてやる!」

 吼える沖野の言葉の意味を咀嚼する。どうせ期待するだけ無駄だとわかっているのに、一時大人しくなった心臓がまた騒ぎ出した。
 わかってる、期待するだけ無駄だって。だってこの男は馬鹿なのだから、感情任せに喚いた結果それらしいことを口走ってしまっただけに過ぎない。わかってる、わかっているのに。
 悲しくて涙が出た時とは別の熱が顔中を覆った。

「……オッキー、今俺が欲しがってる愛が何だかわかってるよね? それが手に入るって……意味わかって言ってる?」
「……わかってて聞くなや。いいか、一回しか言わねえし、後でエコや宰に言ったらぶん殴る」

 少しずつ冷静になってきたのか、赤みを増していく顔で充分わかる。
 けれど、ほんの少しの意地悪と確信が欲しい弱気さで、どうしても言葉が欲しかった。

「お前の彼氏になってやる」

 こんな形でいいの? なんて、どこか冷静な自分が囁く。
 こんな形でもいい、と別府は涙の止まらない顔で何度も頷いた。
 
 
*
 
 
「おい、前半教わったところ全然覚えてねえぞ」
「ノートに解き方書いたっしょー、それ見て頑張ってダーリン」
「はあ!? 元はと言えばお前が変なこと言い出すからだろ!!」
「俺だってまさかナルキッソスの話してたら彼氏出来るなんて思わなかったよ」

 片方が号泣し、怒鳴り合いの末付き合うことになったと思えば、その少し後にテスト勉強を再開するという、人に話せば聞き返されること必至な時間を過ごした。
 夢だったのでは、とも思った。しかし、まだ目の周りは少し熱いし、泣きすぎて頭も痛い。
 それに何より、あの沖野が「彼氏」と言われて一切否定しないのだ。元よりゆるい口元が更にへにゃとにやけてしまうのも無理からぬ話ではなかろうか。

「あー、今日はもうダメだ、解散。明日またやらぁ」
「そんじゃ俺も帰るね。わかんない所あったらまた聞いて」
「おー、気ぃ付けて帰れよ」

 もういい時間だし、家で弟も待っている。
 コートを羽織って鞄を持ち、ドアノブを捻った。
 いやしかし、その先で沖野の兄が仁王立ちしているなんて思わないだろう。
 別府は勿論、玄関まで見送ろうと後ろを歩いていた沖野もびく、と肩を跳ねさせて足を止めた。
 小さく震える「何してんだ」と呟く沖野の声に、その兄は答えることはなかった。

「さく、別府くん帰るんだろ? お前は?」
「は? そこまで見送る……」

 兄の立つ廊下の先を親指で示した弟は、大きなため息というダメ出しを喰らった。

「せめてエントランスまでは送れよ、彼氏だろ」

 余計な一言を添えて。
 絶句して目を白黒させる別府の後ろで、沖野は身をわなわなと震わせている。
 やっとのことで絞り出した声は、今まで聞いたことがないくらい上ずっている。

「……どっから聞いてた」
「『一回しか言わねえ』の辺り」
「……姉貴は」
「俺より先に帰ってたぞ。さくが大人になったって泣いて喜んで、泣き疲れてさっき寝た」

「大人になった」と称される弟に対し、子供のような姉は果たしてこの後も惰眠を貪ることができたのか。
 両手で塞がれた耳を劈く今日一番の恋人の怒号に、別府はぼんやりとそんなことを考えていた。
 
 
 結局、可愛がられている末っ子が長兄に何を言おうと小型犬がきゃんきゃん吠えるくらいにしか思われないようだ。
「人の部屋に聞き耳立てるな」「あまつさえそれを本人に言うな」至極真っ当な意見を述べていたにも関わらず、兄は取り合わず「うちの弟のこと、よろしくな」と別府の肩を優しく叩いて弟もろとも玄関から締め出した。
 沖野が理不尽だとぼやく気持ちも否定できないけれど、それでもやはり羨ましいくらい温かい。

「ほら乗れ」

 あの家で育ったから、バカで粗暴でバカのくせにこういう優しさを見せてくるのだろう。
「ありがと」と別府が笑いかけると、また何とも妙な顔を見せた沖野は止めていたエレベーターに黙って乗り込んだ。
 狭い空間での沈黙。恋人同士になったというだけで、今までどんな話をしていたのか思い出せなくなる。
 ぎこちなく視線を逸らす沖野に対し、別府は小さく息を吐いて「ねえ」と切り出した。

「前言撤回されんのも嫌だからあんま聞きたくないんだけどさ」
「……んだよ」
「オッキーは本当にいいの? 俺と付き合って」

 タイミングが良いのか悪いのか、一階への到着を知らせるチャイムが鳴り、薄暗いエレベーターの中に小綺麗なエントランスの明るい光が差す。
 ちらほらと人のいるそこを黙って足早に抜けると、冷たい風の吹き抜ける屋外で話は再開された。
「風邪引くぞ」と体調を気にかけるのも今は野暮か。

「売り言葉に買い言葉って感じだったし。後悔してない?」

 別府はわかっているつもりだ。今も変わらず沖野がヘテロであることも、結局別府のことも肩書以外に恋人と思えていないことも。
 それでもいいとは思っているものの、後になって無かったことにされたらやっぱり傷付くから、確かめるなら今の内だとも思った。
 振り返って沖野の顔色を窺うけれど、エントランスの光で逆光になってよく見えない。ただ、いつものように眉間に皺を寄せているのだろうことはなんとなく感じ取った。

「……俺じゃねえとだめな気がした」
「え?」
「お前の考え方変えれんのは俺しかいねえと思った」

 きっと、間違ってはいないのだけれど。
 責任感の強さに照れ半分、残念半分の苦笑を零す。
 が、どうにもそれだけではなかったようだ。

「あと」

 続いた言葉に顔を上げる。
 顔を合わせづらかったのかもしれない。視線を上げた別府から逃げるようにふいと顔を背けた沖野。
 生憎、元々逆光だった彼の表情は横を向いたことで光を受け見やすくなってしまった。

「他の、誰とも知らねえ奴に触られるよか、俺が付き合ってやった方がマシだと思っちまったんだよ」

 照れくさそうなしかめっ面も、ほのかに赤く色づいた頬も。
 心臓がまた、ぎゅうと締め付けられる。
 けれど、さっきのように痛くもつらくもなく、ただただそこから幸せが溢れるようなあたたかさで満たされている。

「オッキー」
「あ?」

 呼ばれて再び別府に向けられた沖野の唇に、別府のそれが重なった。そっと触れるだけの、子供じみたキス。
 呆然とする沖野から一歩離れると、惜しげもなく一瞬で離された唇に人差し指を当てて悪戯っぽく別府は笑った。
 光に照らされていたのは、初めて見せる心底幸せそうな笑顔だった。

「俺のこと好きになってくれたら、この続きしようね!」

 くすくす笑いながら体を反転させて帰路に着いた別府の背中を、沖野は声を発することも出来ずに見送った。

 だからそういうのやめろって。いや、けど舌入れてないしセーフか? 一応今は付き合ってるわけだし。
 ぐるぐると一人で考えたところでまとまらない思考を途中で放棄した頃には、別府の背中はほとんど闇に紛れていた。

「~~気ぃ付けて帰れバーカ!!」

 勢い任せの気遣いに、別府が右手を上げて反応するのが暗い中でもなんとなく見えた。
 
 
*
 
 
 さて、その翌朝のことである。
 沖野、別府と同じクラスの樂木は、いつも通り家が近い二組の朝比奈と登校を共にしていた。

「ん?」
「どした、ヒナ?」
「いや、弓削――って言っても知らねえか。うちのクラスの奴が今日休むって連絡してきたんだけど……別府と、沖野って奴? お前と同じクラスだよな?」

 樂木の相槌に、朝比奈は連絡の届いた画面をちらと見せた。朝比奈の手ごと携帯電話を自分に寄せると、樂木はそれに目を通す。
 悲しみに暮れているのが伝わる文章に反し、朝比奈は淡々とその内容を伝えた。既に教室が目前にあることを考慮して、声のトーンは少しばかり控えめにしている。

「なんか、その二人が付き合ってて? 傷心のあまり今日は来れねえらしいんだけど……付き合ってんの?」
「え、マジで? うっそ知らねえ」

 知らないならそれでいい話だったのだが。
 朝比奈は樂木にこの話をしたのが失敗だったと今更になって気付いた。彼の好奇心に火をつけてしまったのだ。
 朝比奈の手から携帯電話を奪った樂木は、そのまま自分の教室に走っていく。

「おい樂木!? 携帯返せ!!」
「エコなら知ってっかもしんねえから聞いてくるー!!」
「いや別に言い広めなくていいんだぞ!? つーか言い広めんなよ!?」

 直後、樂木の大声が教室のドアを、窓をすり抜けて廊下にまで響き渡った。

「なあエコ! 沖野と別府が付き合ってるってマジ!?」
「は!? 上手くいったの!?」

 杉江の余計な一言も相まって、即座に噂は学年中に広まった。
 当事者たちの登校まで、あともう少し。

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