もういくつ寝ると……なんて歌も相応しくなる冬の真っ只中。毎朝この世のどんなものより魅力的なのは布団であると主張して、一体どの程度の反論が出ることだろう。
今朝なんて特に。家の薄っぺらい布団でもない、ホテルの妙に甘ったるい匂いもしない。ふかふかの、生活感のある健全な暖かさ。
ここから出ずに済むのならどれほど素晴らしいことだろう。
だが、脳が徐々に覚醒するにつれて思い出したけれどここは沖野の家。いつまでも寝ていれば怒鳴り声と共に蹴り起こされかねない。
寧ろこちらが先に「オッキーってばまだ寝てんの~?」などと起こしてやるくらいが丁度良いのではないか。
身を裂くような寒さか、実際に身体へのダメージが発生する沖野の蹴りか。選ぶならまあ前者だ。
重い瞼を開き、嫌がる身体を無理矢理起こす。
「ん~……?」
驚きのあまり目を見開いて絶句した。
自分のものでない呻き声がすぐ隣から聞こえたかと思えば、沖野が眠っている。別府の横で。同じ布団で。
いや、よく見ればここは沖野のベッドの中。視線を逸らせば、床には自分の為にと敷いてもらった布団が空っぽのままそこにあった。
寒さか人恋しさか、別府の方から沖野のベッドに潜り込んだと見て間違いなさそうだ。
「オッキー、朝だよ」
「んー……」
不機嫌を露にしたうめき声に血の気が引いた。
寝ぼけているのは自分も同じらしい。沖野の目が覚めれば確実に殴られる状況で、どうして逃げるより先に起こしてしまったのか。
「……べっぷー、お前……」
「うーん……はい」
意外とスロースターターなようだ。この様子なら逃げる余裕はありそうだ。
ほとんど開いていない瞼の向こうから睨みつけてくる沖野に作り笑いを返し、少しずつその間を広げていく。
「さみー……から、こっちこい」
もごもごとこもった言葉は上手く聞き取れなかった。が、直後に腕をひっ掴まれて布団に引きずり込まれたのを考えると、そう言ったのだろう。
布団の温もりが別府を再度夢の世界へ誘おうとしているが、それどころではない。すっかり目が覚めた。
女が好きだのホモに興味はねえだの、常日頃から喚き散らしているくせに何を朝一で男を抱きしめているのか。
別に今更抱きしめられることくらい何とも思わない。怖いのはその後だ。
自分からくっついてきたくせにどうせ途中で覚醒した途端「テメェ何くっついてんだ離れろ気持ちわりーな」などと暴言を吐かれ最悪避けられない距離で殴られかねない。
顔に傷でも残そうものなら母や弟に不要な心配をかける羽目になる。
「ちょっと、オッキー離れて」
「うげぇ」
喉元と胸を押し返すと苦しそうなダミ声が漏れたが自業自得だ。
わずかに開いた隙間から抜け出そうと身を滑らせると、その行く手を沖野の腕が阻む。
更にタイミング悪く、ドアの向こうから沖野の母の声が聞こえた。
「ちょっと桜哉たち起こして来てくれるー?」
「はいはーい」
娘に末っ子とその友人を起こすよう頼んでいるようにしか聞こえない。
沖野の部屋は、ドアを開くと正面の壁に沿うようにしてベッドが置かれている。覆いかぶさる沖野で別府が隠れるなんて都合のいいことにはなりそうにない。寧ろ完全に沖野が別府を押し倒しているように見えることだろう。
「オッキーこれ確実に誤解されるやつだよね? 今のうちに俺を解放した方が身の為だよー?」
「……べっぷー」
「はいはい?」
「お前……きれーなかおしてるよなぁ……」
「……はい?」
自覚はある。が、言われた相手があまりに予想外で面食らってしまった。
それと、普段がバカなので全く気付かなかったけれど、この沖野桜哉とかいう男、真剣な顔をすると中々の男前だった。
死角から喰らった衝撃で動けずにいると、ぱたぱたと賑やかな足音がすぐそこで止まり、ほとんどそれと同時に勢いよくドアが開いた。
「さっくん別府くんおっはよー……あっさ、でぇーす……」
言わんこっちゃない。
我に返るには十分すぎる沖野姉の声は最後の一音が聞こえないほどに小さくなった。
恐る恐る目を合わせると、姉は別府にウインクをかましドアを閉めて行ってしまった。
確実に誤解された。
「あーあ、俺知らないよー」
「んんー……」
「もー、絶対後でこの話するからね」
寝ぼけたまま動かない沖野の胴に腕を回し、マットレスに再度沈めた。
「ぐう」と漏れた声を最後に、再び寝息を立て始めた。目を覚まつもりは無いようだ。低血圧にも程がある。
このまま放っておきたいが、それも客の立場としていかがなものかと思う。
仕方ない、強引にでも連れていくか。
「オッキー重いよ~、何この無意味な筋肉」
「んー……」
「……バーカバーカ」
「うん……」
「あはっ全然起きない」
多少からかったりはしつつも、なんとかリビングまで連れてくることはできた。半ば引きずる形だったけれど。
「ちょっとやだ、桜哉あんたお友達に面倒かけるんじゃないの! ごめんね別府くん、重かったでしょ?」
「お構いなく~」
身支度の整った沖野母は、ばたばたと慌ただしく朝食を食卓に並べると、後のことを娘に任せて玄関の向こうへと消えた。
勢いというか何と言うか、沖野は母似なのだと感じた。
逆に、ゆったりと弟の口に食事を詰めて楽しんでいる姉は、もしかしたら父似なのかもしれない。弟より彼女に近い兄の方も。
別府兄弟はどちらも母似で、性格も環境故の差こそあれどそこまで大きく違うわけではない。杉江兄妹もそこそこ顔や価値観は似ているし、同じ血を引いて同じ家で育ったきょうだいがここまで違うと面白くなってついじっと見てしまう。
「ん? あっごめんね、さっくんここまで起きないの久々でつい……」
別府の視線に気付いた沖野の姉が、わざとらしく恥じらった様子で手を止めた。沖野の方は全ての動きが完全に止まっている。
「いいえお気になさらず」なんて返そうと口を開いた別府だったが、声を発する前にそれを遮られてしまった。
「恋人の前で姉ごときがしゃしゃり出ちゃダメだよね」
「……えっ恋人って俺とオッキーがですか?」
うんうんと嬉しそうな顔で頷く姉は、やはりさっきので誤解してしまったようだ。
可哀想な沖野、自業自得とはいえ昨日散々嫌だと言っていたのに姉からホモの当事者と勘違いされてしまうなんて。もう笑うしかない。
「あれはオッキーが寝ぼけて……」
「えーそう? でも付き合ってるのは勘違いでも、床ドンするなんて。さっくん実は別府くんのこと好きなんじゃないの~? 何か言われたりした? ちゅーとかされてない?」
「そんなまさか――」
頭の中で沖野の声が甦った。
『お前……きれーなかおしてるよなぁ……』
そんな、まさか……
「……え、されたの? ごめんねうちの弟が」
「されてませんけど、顔は褒められました」
「別府くん可愛いもんね。なーにーもうやるじゃんさっくーん」
肘で小突かれた沖野が、やじろべえが如く大きく左右に揺れてから元の姿勢に戻った。
「あの、いいんですか?」
「へーきへーき、どうせ今何言っても覚えてないだろうし!」
「まあ、それもですけど……弟さん、男が好きかもしれないんですよ?」
母にも弟にも、男と体の関係を持っていることは勿論、最早女に恋愛感情を抱けないだろうことは話していない。これから先話すつもりもない。
幻滅されて、嫌な顔をされて、距離を置かれてしまったら、その時こそこの世のどこにも居場所が無くなってしまうと思ったから。
自分を受け入れてくれる友達がいるとわかった今も、それが怖くない筈などなく、やはり家族には全て黙っているつもりだ。
しかし、沖野の姉は――勘違いとはいえ――弟の恋人、好きな人が同性であるとしても嫌な顔一つせず、面白がりつつも弟の春を喜ばしく思っているように見える。
別府の問いにさえ、いまいち要領を得ないといった様子で首を傾げている。
「別に男同士でも男女でも変わらなくない? 私は可愛い弟が幸せになってくれたらそれでいいんだよ」
そういえば昨晩、兄の方も「性別とか気にしない」なんて言っていたか。冗談かと思っていたが、あれも案外本気で言っているのかもしれない。
目から鱗が落ちる。たとえ本人が満足していようと、それが「常識」から外れていたら家族は反対するものと思っているから。
自分の家族はわからない。幼い弟はきっと何も理解せず、兄が幸せだと言えば「良かったね」と言ってくれるだろう。
けれど大きくなったらどうか? 歳の離れた兄弟と言えど、兄が同性愛者と知ったら距離を置くかもしれない。母だってきっと。
自分の家族が冷たいだなんて思わない。沖野の兄姉が特別理解があるだけだというのもわかっている。
だから、少し羨ましくなってしまった。
「オッキーはもう充分幸せだと思いますよ」
「まだまだだよ~。人間、幸せになろうって気になればもっともっと幸せになれるんだって昔お父さんが言ってたんだ」
「さっくんはおバカだけど良い子だから」と付け足した沖野姉の笑顔は、かつてどこかで見たことがあるような。記憶の奥底を掘り起こされるような気になった。
もしかしたら、父の虐待が始まる前は母もこんな風に笑っていたのかもしれない。
「じゃあ別府くん、さっくんのことよろしくね。多分外出ればすぐ目が覚めるから」
「寧ろ外出るまで起きないのがすごいですけどね」
「寝起き悪い所はお父さん似なんだよねー」
乾燥機の熱でまだ暖かい制服に着替え、沖野の姉に挨拶をして家を出た。
歩きながら舟を漕ぐ沖野が危なっかしくて手を繋ぐ。気が付いたときにどんな反応をするか楽しみだ。
――そっかぁ、オッキー俺の事好きなのかぁ。
自分で思っている以上に面白いようで、自然と口元が緩んだ。
「何笑ってんだよ……」
「あ、オッキーおはよう」
「はあ……ねみぃ、なんも覚えてねえ、いつ家出た……?」
「いまさっきだよ」
聞いた通り、確かに寝ぼけている時の記憶は無いようだ。こんな面白体質をしているなんて全く知らなかった。杉江といい勝負なのではないか。
「つーか、兄貴たちに何か変なこと言われてねえだろうな」
「えっオッキー心配してくれてるの?」
「俺のな」
「大丈夫だよ、お姉さんしかいなかったし」
「一番心配な奴じゃねえか」
何を言うか幸せ者め。お前が姉からどれだけ愛されているか教えてやろうか。
なんて思わなかったわけでもないが、寝ぼけている間のことは秘密だと念を押された。残念ながら言うことは出来ない。
けれど、これだけは言っておきたい。
「オッキーん家って、あったかいね」
「は? ああ、床暖房ついてるからな」
「オッキーは、バカだね」
「ああ?」
騒がしくて、本人は鬱陶しそうにしていたけれど、そのあたたかい家庭の光景に憧れた。
*
「おっはよー」
「はよーす」
「おはよー」
教室に着いて、漸く沖野との距離が開いた。
結局手もマンションを出てすぐに振り払われてしまったし、それ以降もとてもいい雰囲気と言えるような空気ではなかった。照れているのか何なのか。
まあ相手は沖野だ、下手に冷やかせば拳どころか足さえ飛ばされかねない。一応気付いていないフリでもしておいてやろう。
「おはよう別府」
「おはよ、いっけー。どうかした?」
「いや……ちょっといいか?」
席に鞄を置いて座ろうとした時だった。
挨拶と共に肩を叩いたのは、別府とは席が離れている池田。同じクラスだ、話したことは流石にあるが、サシで話したことなど覚えている限り無い。
それが朝一でわざわざ別府を呼び出す理由に心当たりなどない。
「何?」
「うーん……沖野のことで……」
周囲に聞かれないよう、呟くようにそれだけ言われた。今朝の記憶が蘇る。
勿論、同居人でもなし、布団に引きずり込まれたことだの綺麗な顔だと褒められたことだのを池田が知っている筈もないのだが……
ちらと沖野に視線をやる。丁度登校した日野川杉江と挨拶を交わしていたが、その後うっかり目が合ってしまった。
とりあえず笑顔を浮かべて誤魔化すと、池田の背を押して場所を移動した。
昇降口方面とは反対側の階段を降りると、会議室裏の小スペースがある。会議室の裏口と非常時用の出入口こそあるが、そこが閉じられている平常時は全くもって意味を為していない空間だ。会議室はよく使用されているので不良の溜まり場やカップルの逢瀬に利用することも出来ない。恐らく校内で最も人気のない場所である。
「で、どしたの?」
「あー……知らないかもだけど、俺実は沖野と同じマンションでさ……」
前に誰かから聞いたような。いやしかし、今言われるまですっかり失念していた。
寝ぼけた沖野と手を繋いで……それを振り払われたのは、マンションのエントランスを出てから。
池田が何階に住んでいるのかまでは知らないが、見られた可能性は十分にある。というか、見られたからここに呼ばれたのだろう。
「単刀直入に聞くけど、別府と沖野って付き合ってんの?」
「付き合ってないよ」
「じゃあ何で手繋いでたんだよ?」
「オッキーが寝起き悪くてさあ、いつ気付くかなって悪戯心」
「コケないようにとかの優しさじゃないのか……」
ツッコミつつ、どこか安心したように見える池田。
変に首を突っ込むことでないことは分かった上で、別府はここではっきりしない疑問を残すような男ではない。
「いっけーはオッキーのこと好きなの?」
「違う違う、俺じゃないんだ……その、あいつも同じマンションなんだけど、2組の弓削がな……」
弓削、確か去年隣のクラスだった。
あの化学教師……岡の相手をした時にも名前を聞いた気がする。なんでも、岡が可愛がった別の生徒が失恋した際、たまたま告白を見ていた弓削から暴言を吐かれてひどく落ち込んでいたとか。
当時は特に興味が無くて聞き流していたので内容は覚えていない。が、池田の話で大まかな流れがわかった。
恐らく、岡の相手をした生徒は沖野に告白した。当然、沖野はそれを断ったが、一部始終を見ていたのだろう弓削は独占欲か嫉妬心から何か言った、ということか。
見られたのが弓削でなく池田で良かった。
「俺と弓削、沖野と幼稚園から一緒なんだけどさ、あいつ小学生から沖野のこと好きで……」
「長いね」
「うん……林間学校で俺たち同じ班になったんだけど、弓削の奴何も知らずに沖野の隣で寝たんだ」
「うんうん」
「あいつん家泊まったなら知ってるだろうけど、沖野って朝なかなか起きないだろ? あの状態の沖野に近付くと、誰だろうと抱き枕にされるんだよ」
……ん?
「しかも、普段バカで騒がしい沖野に黙って抱きしめられるってギャップに落ちたらしくて……まあ、沖野が女が好きってのは知ってるから告白はしないみたいだけど」
「……え、あれって誰にでもやるの?」
「被害者だったか……そう、誰にでも。杉江と違って遠くからでかい声で起こすか殴るかすれば普通に起きるけど。ああ、あと保冷剤とかカイロを顔に押し付けたりとか?」
再度、今朝の記憶が蘇る。
そうか、あの家はみんな声がでかいから知らなかったのか。そしてたまたま、目の前の光景に驚いた姉の声が小さくなったので今日に限っては外に出て体が冷えるまで起きられなかったと。
別段ショックというわけでない。ないけれども。
――なんだ、オッキー俺の事が好きなわけじゃないんだ。
きょとんとする? つまらない?
ぼんやりと胸に生まれた感情は、きっとそんなものだ。
「そんなわけで、付き合ってないんならいいんだよ。見た感じ、別府は沖野に落ちてないみたいだし」
「……もしかして、オッキーが妙にモテるのって」
「あいつ友達多いだろ? 泊まりでゲームとかするんだよ。そういうことだ」
昨日の自分の発言を聞いたのがここにいない沖野一人で本当によかった。妙に恥ずかしくなってきた。
勘違いだった、不器用ながら優しくて友達想いで真剣に向き合ってくれるところに惹かれるんだと思っていたのに何だこのオチは。
「誤解が解けたならよかったよ~、じゃあ戻ろっか」
階段に近い池田を先に上らせ、その後に続く。
ああ本当に、感情があまり顔に出ないタイプで良かった。色々な勘違いがただただ恥ずかしい。
「何の話だよ」
「うお!? 沖野何で!?」
教室の階に戻ると、池田が肩を跳ね上げるのが見えた。声も聞こえたし、沖野が待ち伏せているようだ。
池田の背中から顔を覗かせ様子を伺う。眉間のシワとへの字口からして、「えーなになに何の話ー?」なんて自分や杉江のような好奇心からの問いではないようだ。
「オッキーどうしたの?」
「あ? ……なんでもねえよ」
「……いっけー、今朝俺がふざけてオッキーと手繋いだの見て誤解してたんだってさ。下で話してたのはそれ解いてただけ。ね?」
「ん? ああ、それだけだけど……」
「……なら別にいい」
怪訝そうな顔はしていたものの、沖野は教室に戻っていった。
その背中を見送ったあと、別府の前で池田が振り返った。目を瞬かせながら、もう見えない背中を指さしている。
「……本当に付き合ってないんだよな……?」
「ないってば」
お前が言ったんでしょ、オッキーが俺の事好きなわけじゃないって。
そう言ってしまった時、自分は池田の中の相関図でどこに位置づけられてしまうのだろう。
いつもなら試してみたくなるのに、何故だか今はそれが面白くなかった。
それから一週間程度か。沖野と別府の距離が急激に縮まったということはない。今まで通り友人として、けれど別府の心境の変化からほんの少しだけ親密になったくらい。これは日野川とも同じだ。
他に変わったところがあるとすれば……杉江と日野川以外の誰かと別府が二人で話していると、沖野が睨むように見てくるようになった。
後から「何?」なんて訊ねても返ってくるのは「なんでもねえ」だけ。
――オッキーはさ、俺の事好きなの、好きじゃないの? どっちなの?
沖野は友達。それで充分だ。
だと言うのに、スッキリ晴れた筈の心の中がまたかげったような気になった。こんなこと今まで無かったのに。
「べっぴー、また最近元気無かったりする?」
「うーん……なんかもやもやする」
「何、言ってみ」
「聞いてもらえんのは嬉しいんだけどねえ、俺ん中でまだ言語化できないから待ってて」
教室移動中の最中、ついに杉江に指摘された。感情がじわじわと表に出るようになってきてしまっているようた。
「そのうち話す」の返答に、杉江は安心したように笑う。ほっと胸がじんわり暖かくなった。
先週まではこれだけで「まあいいか」と満足できたのに。
あいつはほとんどいつも通りに過ごしているのに。ずるいんじゃないのか。
「あれ、ねーエコ丸」
「ん?」
「教科書違くない?」
「…………なんということでしょう」
「匠の技で家庭科の教科書が現国にされたの?」
「匠は俺に何の恨みが……あー、見学の上に教科書忘れんのはなぁ……ごめん一回戻るわ、先行ってて」
あからさまにだるそうに、杉江は半分も来た道を戻って行った。
可哀想に、気力も削がれて戻ってきた先には五階までの階段が待ち構えている。授業に間に合うといいのだが……
「別府」
一人になったタイミングを見計らったかのように声をかけられた。
一瞬戸惑う。知っている顔だが名前が――ああそうだ、岡だ。あまりに人に興味が無さすぎて内心自分を嘲った。
嘲笑をへらへらとしたいつもの笑顔に変換し、体の関係などまるで無いように振る舞う。元よりそういう約束だ。
「何ですか~?」
「化学準備室に校章が落ちててな。他の奴らは違うって言ってるんだが、お前のだったりするか?」
「んぇー? あ、そういえば昨日指摘されたっけ。俺のですー」
「そうか、良かった。気を付けろよ、失くしたらまた買わされるんだから」
校章なんて普段から全然気にしていないから、失くしたかどうかなんてわからない。手元に戻ってきたそれさえ、改めて大切にしようだなんて微塵も思わずポケットに突っ込んだ。本来付けるべきブレザーを教室に置いてきてしまったのもあるが。
そんな別府を苦笑しながらも見つめていた岡は、一瞬目をぎらつかせた。
ああ、そういえばあれ以来相手をしていなかったからそろそろ誘われる頃合か。
勿論、今はそんな気が起こらない。杉江と仲良くなったばかりのあの頃と同じだ。
全く不快感のない胸のざわつきに緩んだ唇から、岡が喋る前に自然と声が出た。
「せんせー、勉強の方はもう大丈夫そうだから。ってわけで、準備室の片付けのお手伝いも引退しまーす」
「引退……?」
相手は岡だ。別府の言っている言葉の意味は正しく理解出来ていることだろう。
彼がわからないのは、別府が突然そんなことを言い出したこと。昨年離れていた時とて、そんな宣言はしなかったのに。
「もうあなたとはしない」なんて。
何か言いたげな岡だが、この場でどんな言葉にしようか迷っているようだ。開いた口からは何も出てこず、しかし杉江が戻ってくるのを待つついでだからと、別府も急かしたり打ち切ることはしなかった。
打ち切ったのは、別の人物だった。
「別府に何か用すか」
牽制するような刺々しい声だった。
言いながら別府と岡の間に割って入った沖野はそれ以上何を言うでもなく、しかし別府の前に立ち塞がるようにして動かない。
怪訝そうに顔を顰めた岡はすぐに目を見開くと、今度は合点がいったと目で語った。妙ににやけているようにも見える。
「はあ、なるほどな。そういうことか。わかったよ。じゃあ別府、今までありがとうな」
「どーいたしましてー」
何か勘違いしているようだが、わざわざ追いかけて解くほどのことでもない。
その誤解を生んだ沖野本人はといえば、岡がいなくなった途端に今の男らしさはどこへやら、振り返った顔はいつも通りのアホ丸出しなそれだった。
「……え、お前また呼ばれてたんじゃねえの?」
「呼ばれたよ? でももう行くつもりないし、せんせーにもそう伝えたからもう無いと思うなー」
「そんな物分りいいのかあいつ」
「そもそもが合意の上――だめだよオッキー、廊下でこんな話」
「いや俺のせいじゃねえだろ!? んだよ人が心配してやったのに!」
軽くジョークを交えれば沖野は食ってかかてきて、それに別府はけたけたと笑う。
岡と別府、不健全な関係の二人を良かれと思って引き離す沖野が、当事者である別府に笑い飛ばされてへそを曲げる。いつだか――と言う程でもなくつい先日同じようなことがあった。あったのだけれど。
あの時と同じように沖野の肩をばしばしと叩く別府は楽しそうに笑い声を上げながら、その実困惑していた。
――ねえオッキー。オッキーは本当は、俺のことどう思ってるの?
何よりわからないのは、それを直接本人に聞くことができない自分自身だった。