29 October いつまでも消えないで ※BL※※「はんせいぶん」後編のその後※※ハッピーエンド版※ 今日だって、いつもと何ら変わらない日になる筈だった。 瞬はいつも通り、ベランダを乗り越えて世理の部屋を訪れた。 暗い表情の瞬が言うには、両親から祖父母の家に呼び出されたそうだ。理由は聞いても答えてはくれなかった。 両親が出ていったのと同じような理由があるのかもしれない。世理はそれ以上聞くことが出来ず、大人しくその帰りを待った。「一応金曜には帰るつもりだから。ごめんな、世理」「ま、てる」 世理が首を横に振りそれだけ伝えると、瞬は安心したように、同時に寂しそうに笑った。 それが二日前のこと。 瞬が帰ってくるのは明日だ。それまでは、両親と気まずい食卓について、誰と話すこともなく一人でぼんやりと過ごす。 つまらない、寂しい。瞬は早く帰ってこないだろうか。 夏休みも近付き、学校では浮かれる連中もいれば、長期連休前にやる気が失せたのか授業に出ない連中もいる。 世理も単位に困っているでもなし、休んでも特段後悔するようなことにはならないのだが、他にやることがあるわけでもない。 ただぼんやりと、いつもやっていることを再現し続けるだけ。瞬がいなくても平気、瞬がいない方が楽しそう。そんな風に思われたくなくて。 あわよくば、瞬が帰ってきた後に誰かが「益子、瞬がいない間すっげー目虚ろだったよ」なんてことを伝えてくれないか、とも思っている。「あー……あの、益子? 最近馬渕見ないんだけどさ、なんか知らねえ?」「……じ、ちゃんち、い、てる」「えと、『じいちゃんち』?」「あし、た、かえ、てくる」「『明日、帰ってくる』? そ、そっか。ありがとな」 あからさまな愛想笑いと共に去ったのは、前に瞬と話していた友達だ。こうしてわざわざ、あまり関わりたくもないだろう自分に瞬のことを聞きに来るくらいには、瞬は彼らにとって必要な人間なのだと実感する。 誇らしい。昔の友達なんかは、寧ろ世理が瞬より自分たちと長くいるようにと、瞬を悪く言う奴もいたから。本気で怒ったら二度と言われることはなくなったけれど。 昔の友達と言えば。先日スーパーでたまたま会ってやり過ごしたのを、ここのところ世理は後悔していた。 一人でのろのろ歩く帰り道。夏の日差しに若干の目眩を覚えつつ、通り沿いにある水の張られた田んぼの景色や蝉の声、緑のにおいなんかが好きで、昔から夏場この辺りを一人で歩く時は歩調を緩めていた。 けれど。「あれ?」「そうそう」 まただ。あの時スーパーで「人違いです」と答えるべきだった。 あのおしゃべり野郎は他の連中に世理のことを喋ったらしい。きっと「昔とだいぶ変わっててさ」だの「髪伸びてて、前髪とかすっげー長かった」だの、ご丁寧に身体的特徴まで挙げ連ねて。 瞬がいる時に声をかけてくることはないが、時々一人でいる時を見計らったかのように、かつて友人だった顔見知りが待ち伏せていることがある。 瞬が出かけた二日前だって、コンビニにちょっとアイスを買いに行っただけなのに声をかけられた。「本当に昔と全然違うじゃん」なんて悪意なく言われれば、否が応でも原因がわかってしまうというもの。 咄嗟に前髪で左の顔を隠し、しかし出来れば人違いだと思われるように少し俯きながら歩く。 気付くな、気付くな。そう願うもやはり立ち塞がっていた二人組は世理の腕を掴んで呼び止めた。「世理久しぶり! 俺だよほら、中学でバスケ部だったさ」「気付かなかった? って、世理も大分変わってるけどな」「ああ、すげー懐かしいな。久しぶり」 強引に笑って見せれば、昔と同じテンションのまま絡まれる。昔はこれが平気だったのだから、我ながら尊敬する。 最近の様子だとか、就活どうするだとか、特に興味もない当たり障りのない話だけを交わす。早くこの場を去りたい。 いくら本人がいないからって、両親にバレたらそれはすぐに瞬の耳に入る。家の近くであまり絡まれたくないし、喋りたくもない。 とっとと切り上げようと、脳内ででっちあげた適当な用事を口に出そうとした時だった。「そういや、馬渕も同じ大学なんだって? ほんと離れねえよな、嫌じゃねえの?」「就活とかどうすんだよ。また付きまとわれるぞ」「ほとんどストーカーだよな。高校も世理と同じとこ行ったし」「迷惑なら迷惑って言った方がいいぜ?」 一度開いた口を噤んだ。 ここのところ感じたようなこともない感情が腹の中でぐつぐつと温度を上げる。 ああ迷惑だ、迷惑だとも。そんなにお望みなら言ってやろうとじゃないか。「お前らには関係ないだろ」「……は? え、いや、何怒ってんだよ?」「お前らに瞬の何がわかるんだよ!? ろくに話したこともないくせに勝手なこと言うな!」「うえ、そんな仲良かった? は、はは、悪かったって、そんな怒んなよ」「……悪いけど、他の奴らにも伝えてくれないか。もう、俺たちに構わないでくれ」 世理が腕を振り払い足を進めると、背後で二人の気配が遠ざかるのを感じた。――お前らに何がわかるんだ。 瞬は、誰より俺を必要としてくれた。誰より俺の存在を喜んでくれた。誰よりそばにいてくれた。誰より俺を想ってくれた。誰より―― 世理の思考は、そこで止まった。 止まった足は竦み、見る見る血の気が引いていく。震える唇からは呼吸ばかりが吐き出されて、名前を呼ぶこともできなかった。 目を見開いて、信じられないものを見たような顔の瞬に名前を呼ばれるまで。「せ、り……何、今の……?」「しゅ、ん…………」 何で、どうして。帰ってくるのは明日じゃなかったのか。 瞬に対してはずっと喋れないフリをしていたから、だけが理由ではない。混乱して、息が苦しくて、脳内ですら言葉がとっ散らかって仕方ない。 どうせバレたんだ、何を言ってもいいだろう。寧ろ今だからこそ、伝えないといけない言葉がある筈だ。 それなのに、何も言葉が出てこない。「怒鳴ってたの、世理、だよな……? だって、俺が世理の声、聞き間違える筈無い……」「ま、て……瞬……」 世理が一人で立てることが瞬に知られてしまったら。 自分が殺しかけて自由を奪った人間に一生寄り添う贖罪と言う大義名分を瞬から奪ってしまったら。 離れてしまう、世理の手を放して、どこか遠くへ……―― そんなの、嫌だ。 どう説得したものか――いや、それは本当に必要か? 丁度いい機会なのではないだろうか。あの日から世理は一分一秒という単位で瞬を束縛し続けた。「瞬の為」「瞬も同じ気持ちだ」、そう言い聞かせて。 実際のところどうなのだろう? 瞬はあの頃とは違う。友達がいて、女子からの人気だってそこそこ高いらしい。 世理が縛り付けることをやめれば、あの頃願った幸せが瞬を待っているのではないか? 自分はもう、瞬にとって重荷でしかなくなっているのではないか?「……気付くのが、遅すぎたな」「……! 世理、やっぱり……!?」 瞬から顔色が消える。それからすぐに、世理は自分の頬を伝う熱に気がついた。「俺は……自分のことしか考えてなかった……瞬が苦しんでることだって、知ってたのに……」「せ、り……」「ごめん……ごめん、瞬……ずっと、嘘ついてて……」 泣きそうな顔の瞬が何かを言っている。けれど、ひどく痛む頭は外からの音を何も受け付けようとしなかった。 不自然なほど静かな夏空の下で、ただ自分の涙に震える声だけが響いた。「さよなら。もう俺、消えるから」 自分の言葉が苦しくて、涙で何も見えなくなった。 走って、走って、走って。瞬の前から消えなくちゃと、自分に課せた義務をただ遂行する。 苦しい、つらい。こんなに走ったなんて久し振りだ。こんなに泣いたのは久し振りだ。 瞬から離れるなんて、初めてだ。 あの時自分がいかに残酷なことをしようとしたのか、今更になって理解した。こんな悲しい思いを瞬にさせてしまったなんて。 殺されかけて当然だった。それなのに瞬は自分を愛し続けてくれて、自分はそこに付け入って甘え続けて。 最低だ、人でなし、どうしてあの時死ななかった。脳内で自分へ向けた罵詈雑言が湧いては心を掻きむしる。「はぁ……は、ぁ…………は、…………」 体力の限界を迎え、足が動きを止める。 幸か不幸か、背後からは足音は追ってこない。ずきずきと痛む心臓を押さえて、世理は息を整えつつのろのろと足を進めた。* 瞬はあの後、そのまま家に帰った。 追えなかった。昔ならともかく、今の世理なんて走ればすぐに追いつけた筈なのに。 混乱した頭では何も理解できやしない。理解したくない。 世理はずっと嘘をついていた。喋れない振りをして、一人で生きていけない振りをして。 世理のそばにいなきゃいけないと思った。それが責任だと思ったし、だからこそずっと世理と一緒にいることが許されると、そう思っていたのに。 世理が普通に生きられるなら、もう自分には世理の隣にいる資格なんて無いじゃあないか。 そう思ったら、怖くなって足が竦んだ。 結局、両親の言う通りだった。『瞬、もう世理くんの近くにいるのはやめなさい』『ねえ瞬、お母さん怖いのよ。あなたがまた……世理くんに何かしてしまうんじゃないかって』『そろそろ決心してくれないか』 言われた通り、もっと早く世理から離れていれば二人とも幸せでいられたのだろうか。今となっては、全て後の祭りだけれど。 和室に寝転がって、まとまらない頭でぼんやりとそんなことばかり考えていた。 ずっと天井の模様を見つめていたつもりだったが、ふと部屋がすっかり暗くなっていることに気付いてからは、自分がさっきまでどこを見ていたのかわからなくなってしまった。 世理はもう帰ってきているだろうか。天井越しに二階のベランダに視線を向けるが、勿論様子は窺えない。 今日は部屋に戻っても電気を付けずに過ごそう。世理にどんな顔をして会えばいいのかわからない。会っていいのかさえ、わからない。 このまま眠って、明日は学校をサボってしまおう。そんな思いで瞼を静かに閉じた時だった。 チャイムが鳴らされた。 重たい体を起き上がらせてインターホンのモニタを確認すると、冷や汗がどっと出た。 映っていたのは世理の母だ。不安そうに、カメラを覗き込んでいる。 応答する気は無かった。けれど、動揺のあまり後ずさった先で体が椅子にぶつかり、存外大きな音が出てしまった。 インターホン越しに外に聞こえてしまったのだろう。世理の母が掴みかかるようにカメラに詰め寄った。「瞬くん、いるの? ごめんね、世理のことで聞きたいことがあるんだけど」「な……なんですか」 どくどくと脈打つ心臓に震えそうな声を必死で抑える。何も知らない、何もしていない。あの時と同じように、何食わぬ顔で少しずつ日常に戻ろう。 瞬の犯した罪を神は許さなかったようだ。とても何食わぬ顔などできそうもない話をスピーカーから聞かされた。「世理、お宅にお邪魔してない? まだ帰ってこないんだけど……」 呼吸が止まった。心臓の動きさえ、止まったように感じた。 世理の泣き顔が、最後の声がフラッシュバックする。 ――もう俺、消えるから。 今度は、声の震えを抑えられる余裕など無かった。「……世理、まだ戻らないんですか……?」「そうなの。いつも瞬くんと一緒にいるけど、今日帰ってきたんだものね? 電気もついてないし、でも他に行くところが思い当たらなくて……」 消えると言うのは、単に瞬の前からという意味で受け取った。あの場で姿を消し、時間を置いて家に戻ったらもう瞬の前には姿を現さないと。そういう意味だと。 どうして考えなかった、どうして追いかけなかった。それ以上の言葉を指している可能性だって十二分に有りうるのに。 また罪を重ねた。世理を、本当に失ってしまったと言うのだろうか。 茫然自失の状態で、ふらふらと玄関に向かう。インターホン越しで済ませていいことではない――いや、もう自分の内に抱えられる許容量を超えてしまった。 がちゃりと鍵を開けて顔を覗かせれば、カメラに向いていた世理の母の目とかち合った。 瞬の様子に、世理が帰ってこない心配以外の何かを感じ取ったのだろう。向けられる視線には怪訝の色が感じて取れる。 玄関を出て門を開くなり、瞬は数歩後ずさった。 世理の母が事態を理解するより先に、瞬は額を地面に打ち付けた。「すみませんでした……!」 怪訝の色が困惑に変わる。言葉になり損ねた声をいくつか重ねた後、漸くそれらしい言葉が瞬の頭上で紡がれた。「ち、ちょっと、どうしたの? いきなりやめてよ、土下座なんて……」「世理がいなくなったのは……僕のせいです……」「……は?」 優しかったのは――近所の目を気にしていたのはここまで。 ずかずかと詰め寄る足音は、地べたから離れない瞬のすぐ側で止まった。膝が付けられたのか、靴底とは違うものが地面に落ちる音がしたと思えば、瞬のシャツの襟がぐいと持ち上げられる。 女性の腕力などたかが知れているが、今だけは逆らってはいけないと身を任せる。「知ってるでしょ……あなたも知ってるでしょ!? あの子が昔何をしたか!」「違うんです、違うんです……!」「何が違うのよ、言い訳しないで!!」 通行人や向かいの家の窓から好奇と戸惑いの目を向けられる。世理の母はもうそんなことに構う気配さえ見せない。 それで気が済むのなら、殴られようが刺されようが構わない。自分はそうされて然るべきなのだから。 それより先に話さなければならないこともあるけれど。「何してるんだ!」「止めないで!」 そんな中で、世理の母を止めたのはその夫――世理の父だった。 瞬を置き去りに暫く口論を繰り広げると、二人で門の外に出ていった。勿論、瞬をこのままにするわけではない。「瞬君、悪いけれど君も来てくれるかい」 瞬は放心状態のまま、玄関の鍵だけかけて二人の数歩後ろをついて行った。 連れられたのは隣、世理の家だ。 数年振りに玄関から上がった家は、昔よりずっと質素になっていた。 家族で撮った写真が並んでいた下駄箱の上には、郵便物以外の何も無い。鮮やかな彩色だった玄関マットも、床と変わらない地味で暗い色のものが敷かれている。いつも綺麗に整理されていた靴は、脱ぎっぱなしでそのままなのか、乱雑にただ置かれている。 思い出されるのは、世理が病院に運ばれたあの日からしばらく経ってのこと。見舞いに行った先でぽつりと世理の母が呟いていたのを聞いてしまった。『世理の写真を見るのがつらいの……今のあの子はもう、あんな風に笑えないんだって……思い知らされるようで……』 あの時、改めて自分の罪を思い知った。自分が変えたのは世理と自分だけの人生ではなかった。 とても一人で背負いきれず、両親に打ち明けた結果が今の冷え切った親子関係なのだけれど。 世理を連れてどこかに行かれてしまうのが怖かった。謝りたくて仕方なかった反面、どうしても世理の親に本当のことを言えずに数年を過ごしてきた。 ずっと黙って何食わぬ顔で過ごしてきたツケが、ここで回ってきたのだと思った。 リビングに通されて、二人と向かい合う形で座らされる。 世理の父はまず真っ先に、頭に血の昇った世理の母から話を聞き出した。 内容は、瞬が世理に何かをして、帰れない状態にしたというものだった。間違ってはいないので、瞬も黙って頷く。 テーブルを叩いて立ち上がった世理の母が声を荒らげる。「世理に何をしたのよ! あの子が何したって言うのよ!? あの子は一度自分の命を絶とうとしてるのよ!? どうしてもっと慎重に接しなかったの!?」「ち、違うんです……」「違わないでしょ!?」「母さん」 世理の父が静かに妻を制止する。 当然、瞬を庇ったわけではない。そのまま息子との間に何があったかを冷静に訊ねた。「妻はこの通り、冷静さを欠いている。だから君から教えてくれないか。世理に何をしたのかな」 世理は丁度両親を足して割ったような顔立ちをしている。その中で目元は父に似ているのだと改めて思った。 理性的で、けれど確かに怒りを湛える世理の双眸にとても嘘などつけやしない。元々、そんなものをつく気がないからここまで大人しく付いてきたのだけれど。 震える声を、絞り出すように吐き出した。「世理は……自殺未遂なんて、してないんです……」「は、何言っ――」「僕なんです……僕が……世理の首を、絞めました……」 空気が氷点下に達する音が聞こえた気がした。 冷たい沈黙が自白剤のように瞬の口からぼろぼろと数年間溜め込んだ真実を零させる。同時に瞬は、今度は自分が首を締め上げられるような息苦しさに苛まれた。「世理が、遠くに行くのが、置いてかれるのが怖くて……気付いたら、両手が世理の首に伸びてました……怖くなって逃げて、けど、後から世理が自分で『自殺しようとした』って言ったって聞いて、何も言えなくなって。喋れなくなって、表情が強ばって、記憶にも何か残してしまったのかもしれない、それでも世理が僕に笑いかけてくれたのが嬉しくて、申し訳なくて……せめて、僕が壊してしまった分、ちゃんと支えられればって思って……」 俯く瞬の耳に、世理の父が再度妻を窘める声が届く。 ただし、今度は間に合わなかった。視界の隅で立ち上がった影は、思い切り瞬の頬を叩いた。 乾いた音が甲高く響き、熱が生まれる。けれど衝撃の割に、然程驚きはしなかった。何となく、こんな話をすれば殴られる気はしていた。寧ろ、ビンタで済んだのが申し訳ないくらいだ。 俯いたままの瞬に、世理の母はヒステリックにも聞こえる声を張り上げる。「何が、『ちゃんと支えられれば』よ……そもそもあんたが変に世理に執着するからじゃない! あの子に勝手にまとわりついて、離れられそうになったから殺しかけるなんて、どうかしてるわよ! 何で、あんたなんかの為にあの子がつらい目に……! 世理を返して!」 尤もだと思った。感情的な声のどこにも反論する余地は無く、瞬はただただ黙り込む他ない。 いっそ父からも殴り飛ばされて益子家に出入り禁止にしてもらえれば、世理も帰ってきやすいかもしれない。 けれど、瞬の予想に反して、世理の父はどこまでも冷静だった。「……それは、君が昔したことだね」「……はい」「今回――今日かな、君が世理に何をしたのかを聞きたいんだが」 瞬の言い分を聞いてくれるのが優しさなのか、それともこれが真綿で首を締め上げられるというやつなのか。どちらにせよ、瞬はこの場で今日見たものを、聞いたことを話さなければならなくなった。 世理が数年間自分に――両親にさえ隠していた秘密を、この口で。「……予定より一日早く帰ってこられて、授業が終わったくらいの時間だったので、学校まで世理を迎えに行こうとしたんです……」 早く世理に会いたかった。両親と、祖父母から色々責め立てられて参っていたので、愛しい世理の顔を見て癒されたかった。 そのせいで、まさかこんなことになるとは夢にも思わなかったけれど。自分の間の悪さに寒気すらする。「途中の田んぼの近くの道で、世理が人といるのを見ました。確か、中学で世理と同じ部活だった人です。絡まれてる、という風でもなかったので様子を窺ってると……世理が、怒鳴ったんです」「……は?」 世理の母が、空気の抜けたような声を発した。どこか苛立っているようにも聞こえる。瞬が嘘をついているように思ったのかもしれない。 しかし、生憎これは事実。嘘であれば、今頃ここにいたのは瞬ではなく世理だったろうから。「多分、その人たちが僕を悪く言ったんです。世理が、僕を庇うように怒鳴りつけるとその人たちはどこかに行きました。僕は理解が追いつかなくて、そのまま世理と鉢合わせて……」 世理の泣き顔が、最後の言葉がフラッシュバックする。心臓が握りつぶされるように痛い。 けれど、これも伝えなくては。それがきっと、義務なのだ。世理を傷付けてしまっておきながら、きっともう謝る機会さえ与えてもらえないだろう自分の。「――『ずっと嘘ついててごめん』て……『もう、消えるから』て……泣きながら走って行って……追いかけることも、できなくて……」「……世理が、ずっと嘘ついてたの……? 嘘よ、あんたが嘘ついてるんでしょ?」「世理が、言ったんです……自分の声で、言葉で、喋ってたんです」 顔を上げることができない。けれど、声の様子から、世理の母が余程驚いている様子が目に浮かぶ。近頃はお互い実の親より長く一緒にいた瞬でさえ信じられなかったのだ、無理も無いだろう。 それ以上何を言えばいいのか。話は終えた。瞬は再度口を噤む以外何もできずにいる。 今日一番痛々しい沈黙が走る。瞬には、これを破ることはできなかった。 「……正直に言おう。子を持つ親の立場から、君には二度と世理に近付いてほしくない。世理は我々両親が捜して、君には大人しく自分の家にいてもらいたい」 静かに、世理の父が言い切った。瞬からすれば切り裂かれるよりつらく、しかし言われる予想も充分できていた言葉だ。 肺にナイフを突き立てられたかのように胸が痛く、息が苦しい。 俯いたまま、瞬は血の味が滲むほど強く下唇を噛み締めた。「……しかし、世理はもう子供じゃないんだ。いつまでも親の庇護下にいるわけでもない。君に首を絞められても『自分で絞めた』と嘘をついた。ずっと喋れないフリをしていたのも、あの子の中でそうしないと君のそばにいられないと思い込んでいたところもあるのだろう」 複雑そうに、静かに吐かれた言葉の意味を理解できないほど、瞬は自分を鈍感だと評価していない。 ばっと顔を上げる。改めて世理の両親の顔を見ると、やはりどこか憎たらしそうに瞬を睨んでいる。が、そこにわずかではあるが諦観の色が滲んでいるのもわかった。「あの子がそれほど君のそばにいたいと願うなら、親と言えどそれを邪魔する資格は無い。世理のことは君に任せる」「……いいんですか?」「君が過去のことを本気で反省しているように見えたから、こちらもそう言えているに過ぎない。勿論、条件もある」 世理の父の提示した条件とはこうだ。 日が昇るまで――明日の朝までに瞬が世理を探して連れ戻すことができれば、今まで通り世理のそばにいることを許す。 しかし、それまでに帰ってこなければ、もしくは世理が一人で帰ってくるのであれば、もう瞬は必要ない。二度と世理に近付くことは許されない。 日の出まで半日も無いというのに、酷なことを言う。瞬のしたことや息子のことを思えば随分妥協してくれているだろうこともわかるけれども。「……絶対に、世理を連れて帰ります」「……世理だけが、帰ってきたらいいのよ」 ぼそりと、世理の母が呟く。 胸が痛むも、本物の刃物で刺されないだけましと堪えた。連れ戻すまでは責任を持ってやり遂げる。けれどその先、世理が既に気が変わっていて自分と会うのが嫌だと言うのなら、もう二度と彼らの前に現れないと誓おう。たったそれだけで償いになるとは思えないけれど。 立ち上がり、最後に一礼だけして世理の家を飛び出した。 とはいえ、あれからかなりの時間が経った。手当り次第に探してみても見つからない、行く先に検討さえつなかいのが現実だ。 メールも、電話も応答が無い。留守番電話サービスの登録なんてしていないし、何より数コールの後ぶつりと切られているのだから敢えて瞬からの電話に出ていないのだ。無事らしいことが窺えただけまだいいのかもしれないけれど。 やはり拒絶されている。致し方ないとは言え、世理の母に毒を吐かれたのとは比べ物にならない重さがのしかかる。 耐えなければいけないのはわかっている。だからこそこうして足を動かし探し回っているのだが、世理がどこにいるのかわからない不安と相まって苦しさが治まらない。 小中学校や近場にある寺院、公園、河原……昔、世理や自分がよく遊んでいた場所をひたすら周る。殆どが、瞬が世理から奪った場所だ。走り続けて張り裂けそうな心臓にトドメを刺されそうな気になる。そのどこにも世理がいないのだから余計に。 一体どこへ行ってしまったのだろう。騒がしいところは嫌いだから歓楽街方面にはいない筈だが。 いつも財布を持ち歩いているから電車で遠くに行ってしまっていたらどうしよう。そこまで大きな金額やカードの類は常備していないので流石に地方まで出てしまったということは無いと思うけれど。 使っていない自転車でも引っ張り出すべきだったか、あれから何時間経過したことだろう。上下する肩も落ち着かせたい、瞬は一度足を止めてポケットから携帯端末を取り出し、ディスプレイの時計を確認した。 自宅で腐っていた頃からかなり時間が経っている。日付が変わる寸前までよくもまあ走り続けたものだと自分に感心する間さえ無かった。 突然画面がフリーズしたかと思うと、振動と共に電話の着信を知らせた。表示されている名前は、世理だ。 何を考えるより早く、ほとんど反射で電話に出た。「世理!?」「あ、馬渕?」 違う、世理じゃない。受話口から聞こえた声は世理のものではなく、別の男の声だった。 中学の同級生らしいその男はきちんと名乗ったものの、瞬の記憶にそんな名前は無いし、知っていたとしても思い出すどころではない。 世理の携帯電話を別の誰かが持っている。それなら世理はどこに? そもそもこの男が世理の電話を持っている理由がわからない。 膨らむ瞬の不安をよそに、絶え間なくべらべらと一人で喋り続けるその同級生とか言う男は、忘れていたらしい本題を思い出すなり「あ」とでかい声で叫んだ。耳が痛い。「早く話さねえと世理が風呂から出てくる、やべやべ」「は、風呂……?」 行方を晦ました世理が無事だというのがわかったのはいい。 しかし、このやたら馴れ馴れしい男と一緒にいて、しかも今は風呂に入っているらしい。気を失いそうにさえなる。「馬渕、世理とケンカしたんだろ?」「……けんか、ていうか」 上手く話せない。混乱と不安と、相手が中学の同級生と聞いたからだろうか。大学ではもっと流暢に、それこそかつての世理のように話すことができるのだが。 そうでなければ、このやたら喋る男に圧倒されているだけかもしれない。こっちが黙っていても無音になることが無いのだから。「たまたまうちの近所で会ってさ、目真っ赤にしてて。俺、世理の泣き顔とか初めて見たわ。んで、『どうした?』って聞いたら『泊めろ』って言うんだけどな? ほら、世理から聞いてねえ? この前スーパーで会ったんだけど、そん時も一緒だったっつー馬渕も近くにいねえし『今日は一緒じゃねえの?』って聞いたらまた泣きそうな顔で黙るしさ」 本当によく喋る。余計なことまで、本当に。 世理が自分以外の他人を頼った。スーパーで会ったなんて聞いてない。世理の泣き顔を他人に見られた。 聞きたくない、黙ってくれ。その先を聞いたらきっと、世理の両親との約束を放棄してしまう。 世理がやはり自分に会いたくないのだと確信してしまったら、また立ち止まってしまう。「だからさあ」 やめろ、黙れ、喋るな。 喉から出そうになる言葉がそのまま自分に返ってくるように声が出てこない。 世理から拒絶される前に、もう一度だけ会うチャンスを、勇気を貰った。 風前の灯とも呼べる最後のそれは、簡単に奪えてしまうから。だからどうか、第三者に悪気なくふっと吹き消されるような最期を迎えたくはない。「迎えに来てくんねえ?」「へ……?」 下手くそな笛みたいな空気の音に、僅かに声が混じった。 瞬の願いが届いたのと同時に、自分に跳ね返ってきていた呪詛が消えたようだ。長時間走り続けてからからになった嗄れ声が、空気を揺らしたのが向こうにも伝わった。「俺が、迎えに……?」「だってお前とケンカして家出したんだろ? ちゃんと仲直りして帰んねえとじゃん」 顔も浮かばないけれど、首を傾げている様が浮かぶ声色だ。「何を当たり前のことを」と不思議に思っているのが伝わるくらいの。「2人ってさ、昔っから正反対なのにどっちか欠けたら死にますみたいな顔してさ。ぶっちゃけやべえなって思ってたけど、ケンカ別れとかしたらそりゃ違うじゃんて思うわけよ、外野は」 勝手なことを言う。お前たち外野がどう思おうと知ったことなどないと言うのに。 けれど……――「……ありがとう。えっと……」「えっと、て俺の名前? ひっでーなさっきちゃんと言ったじゃんか。浅野だよ!」「うん、覚えてるよ。家の場所を聞きたかったんだけど」「あ、そっち? そっか場所知らねえか。ボーリング場の裏の細い道の先にピンクの家があんだけど、その向かいのさ……」 少し嘘をついた。今の今まで覚えてなんていなかった。 けれどああ、そうだ。中学の時、世理と同じバスケ部によく喋る奴がいた。世理のついでに瞬にも話しかけてきて、うるさくて苦手だった。けれど、思えば彼は一度も瞬を悪く言わなかったような気がする。「わっやべえドライヤーの音する、そろそろ出てくるから切るな。あ、場所わかりづれえからもうコンビニ行かすわ。ボーリング場と駅の中間にある方な! じゃあよろしく!」 ひたすらうるさかった電話が切れるなり、夏の夜に響く虫の合唱がよく聞こえた。今まで空気を読んで黙っていたのではないかと疑うくらい、今まで全く気が付かなかったのに。浅野に比べれば可愛いものだが、これはこれでまたうるさい。 目覚ましのアラーム代わりには丁度良かったようだ。頭が少しすっきりしたように軽くなる。「ボウリング場……」 現在地とは真逆にある。走っても十分はかかるか。 いや、間に合わせる。到着が世理より早くても、遅くても、捕まえるまでもう逃げない。ここまでお膳立てされて、引き下がる訳にはいかないだろう。 風前の灯は、一瞬目を離した隙にその勢いを増していた。ふうと吹いたくらいでは、もう消えそうにない。 蒸し暑い空気の層を割くようにしてひたすらに走った。世理の家を出て数時間だ。体力など殆ど残っていないし、両足の筋肉が今までにない痛み方をしている。ちぎれていない筋繊維はあとどれくらいだろう。からからの喉だって、扁桃腺の奥が血で濡れていると言われれば信じられる。 だから何だ、今走らずしてどうしろと? 力が入らずもつれようと、ボロボロになってもげようと、今、この足を止めるわけにはいかない。 目的地がはっきりしたからだろうか。たった十分ではあるが、それが更に短い時間に感じられた。 蒸し暑い夜道をずっと走ってきたものだから、コンビニに足を踏み入れた瞬間光と冷気にやられそうになる。 けれどそれ以上に――「……せ、り」「――しゅん……?」 世理がいた。どこも怪我はしていないように見える。安堵の息を吐けば、酸欠も極端な冷房も途端に気にならなくなった。 もう一つ。はっと我に返って顔を逸らす一瞬前、瞬の名前を呼んだ世理は右目を細めて幸せそうな笑顔を浮かべていた。いつも瞬が世理の名前を呼ぶ度に見せたのと同じ顔だ。 数年間ずっとそうしてきた習慣が反射的に表情を作っただけかもしれない。けれど、それが世理と話せる唯一の隙であるのなら希望と呼ぶに値するのではないだろうか。 浅野に頼まれた買物だろうか、手に持っていたジュースを棚に戻そうとあたふたしている世理に詰め寄り、腕を掴んだ。 視覚でわかる世理の震えが手から伝わってこないくらい、瞬の腕もぶるぶると震えている。疲労と、緊張とで。 少しずつ治まりつつある過呼吸をすっかり落ち着いたように見せかけて、他の客や眠そうな店員に聞かれないように囁いた。「……二人で、話したい。場所変えよう?」「……俺、買い物、頼まれて……」「浅野なら、俺が来るのわかってて世理をコンビニに来させたんだ。お金も渡されてないだろ?」「…………」 控えめに合った視線は、きっと瞬の口から浅野の名前が出たことに驚いて寄越してきたのだろう。 少し考えてから、世理は小さく頷いた。声を聞かせてくれないのは、まだ瞬の前で普通に話すか迷っているからかもしれない。 スポーツドリンクと小さいサイズのお茶を買って世理と瞬はコンビニを後にした。「……おじさんも、おばさんも、心配してるよ」「…………ん」「ん? ああ、俺に買ってくれたんだ? ありがとう」 スポーツドリンクを瞬に渡しても、それに対して礼を言われても、世理はやはり口を開かない。けれど逃げないでくれるから、瞬も少し気を抜いてペットボトルのキャップを捻った。 クーラーに温度を奪われた皮膚を、湿った空気の温もりが包み込む。逆に熱を逃がす気のない体内は、食道に冷たいスポーツドリンクを流し込むことで人の体温を取り戻した。 呼吸も大分落ち着いた。ペットボトルのキャップを閉じて、結露と汗で濡れた手をズボンで拭う。 手を伸ばして、半歩後ろを歩いている世理の手を取った。ぴくりと強ばったものの、指を絡めると待ちわびていたように擦り寄る指が愛おしい。 だからこそ、この手を掴むことを放棄した自分が許せなかった。「……ごめん、すぐに追いかけられなくて」「…………瞬、が……謝る、ことじゃ、ない」「喋り方、もうどっちでも気にしないから。世理が喋りやすい方でいいよ」「……少し、時間が、欲しい。まだ、瞬の前、で、普通に、喋る、の、慣れない、から」 頷いて「ゆっくりでいいよ」と付け加えれば、握り返す手にぎゅつと力が入った。 やはりあの時はお互い興奮状態にあったのだ。だから世理も瞬の前で流暢に話せていたし、冷静になった今はそれができなくなった。 瞬だって、今の今までは混乱や、罪悪感や、走り続けたことで思考能力が低下していて、コンビニでは純粋に世理を見つけられたことが嬉しかった。 しかし今、冷静さを取り戻すにつれてネガティブな感情も顔をちらつかせる。世理が一体、どういうつもりで嘘をつき続けていたのか。握り返してくれた手は、本当に愛故のものなのだろうか。 今なら、嘘偽りなく話してくれる気がしている。世理が本当のことを言うなら、それが自分にとってつらいことでも受け入れようと思った。「とりあえず帰ろう」「……外で、少し、話した、い」「わかった。じゃあ……」 ここからなら、小学校辺りの公園が近い。寺院の裏にひっそりとあるそこは、小さい頃瞬が泣いて家を飛び出すと、必ず世理が真っ先に迎えに来てくれた場所だ。 このご時世、あの頃ひしめいていた遊具の数々はほとんどが撤去されてしまった。子供の体でも狭く思えた小さな公園は、今では入口から全体が見渡せるほど広々と感じられる。 それでもあの頃瞬が蹲って泣いていたベンチや、世理が斜面をかけ登ろうとした滑り台はまだ残っている。 だからだろうか、がらりと変わってしまったようでいて、十年以上振りに来たここに懐かしさを感じた。 世理の手を引いて、ベンチに腰掛ける。「先、話していい?」 世理は黙って頷いた。左から見える横顔はいつも通りの無表情。ここは嘘ではなかったようだ。「世理が怒鳴ってるのを聞いて……しかも、普通に喋れるって知って、ショックだった。嘘つかれてたとかそんなことじゃなくて、世理が自力で生きていける、昔のままの世理なら俺はもう傍にいちゃいけないって思って……だって俺は、世理を……それが何より苦しくて、嫌で、認められなかった。だから、あの時走り出した世理をすぐに追えなかったんだ。けど、おばさんから世理が帰ってこないって聞いて、色々話して、いろんな場所を探し回って……俺が、世理から全部奪ったんだって、改めて思い知った」 話している間、世理は俯いたままこちらを見ようともしなかった。その僅かに見える左側だけを見て「悲しそうだ」なんて思えるのは、ずっとこの顔を見てきたからだろうか。 世理のことをずっと見てきて、何でもわかっている気になっていた。なのに実際はそんなのはただの幻想で、ずっと隠されていたものに気付くことさえできなかった。 けれど何も見えていなかったと言うにはあまりに一緒にいすぎた。大きな嘘を見過ごしていたとて、あの時間の中にたった一つの本当も無かったなんてありえない。 だから、ちゃんと聞きたい。世理の口から。 例え自分に都合のいい真実でなかったとしても、罰を与えられる結果になったとしても、それを受け入れなければならない。今はもう、その覚悟ができている。「世理が、本当は俺から逃げたいと思ってるなら、俺はもう世理の前に現れない……約束、するよ。だから、本当のことを話してほしい。全部受け入れるから」「……勝手なこと、言うな」 ぽつりと零れた声は震えていた。怒りではなく、悲しそうに。膝に置かれた手はぎゅうと握りしめられ、ズボンにシワが寄る。 世理は瞬を見ることなく、俯いたまま感情を吐き出した。「俺は、昔のまま、なんかじゃない……壊れたんだ、あの日、瞬が壊した……お前から逃げたい? 俺が? そんなわけ、あるか。あの日、病院で目が覚めて、言葉が出なくて、喋れなくて、顔が、半分動かなく、なって……瞬が、『守る』って、『離れない』って言ったから……っ! これなら離れなくて済むって思った!」 世理の啼泣じみた声が公園にこだまする。 依然俯いたままの双眸からは涙が溢れている。しわだらけのズボンに水滴がぼろぼろと落ちてシミになった。「なのに、時間が経つにつれて戻ってった! 頭は普通に働くし、言葉だって普通に話せる。左側の表情が動かない? それだけで瞬を引き止められるなんて思えなくて……だから……」 ずっと自分のズボンを握っていた手が放されたかと思えば、今度は瞬の胸倉を世理の手が掴む。手が、涙に濡れた目が、縋るように瞬を捕らえて離さない。「ずっと瞬が好きだった……子供の頃から、両想いだって、嬉しくて……けど、絶対どこかで壁にぶつかる。俺は上手く生きていけたかもしれないけど、瞬が傷つくのは嫌だった。だから、手遅れになる前に終わりにしようとしたんだ。お前に黙って東京の大学受けたのも、それをギリギリまで言わなかったのも……でも、お前がきっかけをくれた、ずっと一緒に居られるきっかけを」 ああ、気付くのが遅すぎた。 子供の頃、世理が太陽だと思っていた。みんなに好かれて、誰しもに求められて、その笑顔はいつもきらきら眩しくて。 そんな中で、自分に向けられる笑顔が一等眩しいと感じていたのは、瞬自身が世理を好きだからだと思っていた。今の今まで。 それもあるだろう。けれど、それだけではない。世理もまた、瞬が好きだったから。 たまらなくなって世理の体を抱き寄せた。早まる心臓の音も、しゃくり上げる声も、零れる涙の温かさも、全身で受け止める。つい数日前も同じようにしていた筈なのに、どうしてか、よりいっそう世理の命を感じられた。「何度も聞いたろ? 俺が、なんで親や医者に嘘ついたか、お前に首締められたことを自殺未遂って言ったか……何でわかんないんだよ、そんなのお前と一緒にいたいからに決まってるだろ……『瞬が悪い』って、お前を取り上げられたくなかったから……でも、ごめん……俺が誰よりお前に責任を擦り付けてた。俺が誰より瞬を責めてた。そう、感じたよな……? それでも、ごめん、俺は瞬から離れたくなかった、瞬に、どこにも行ってほしくなかった……ごめん、勝手なことばっか言って、ごめん……」「俺たち、馬鹿だなぁ……最初っからこうやってちゃんと話してれば、何も壊さずに済んだのに……」 徐に瞬の目からも涙が落ちた。世理につられたように、ぼろぼろ溢れて止まらない。 世理の体がぴくりと跳ねて、両手が恐る恐る瞬の背中に回された。暖かくて優しい、いつもの世理の手だった。 大の大人が夜の公園で抱き合って泣きじゃくる異様な光景。だが気にするものか。今この場所だけは、他の誰もいない。漸く心を通わせられた、二人だけの空間だから。「世理……これからもずっと、俺と一緒にいてくれる……? もう、俺だけのものでいろなんてわがまま言わないから、どこに行くのも一緒なんて言わないから」「ばかだな、瞬。俺の居たい場所がお前の隣なんだって、言ってるだろ」 しゃくりあげる声に、微かに笑い声が混じった。 頭が痛くなるほど泣きじゃくったのなんていつぶりだったか。腫れて熱くなった目元をそれぞれスポーツドリンクとお茶を当てて冷やす。だいぶ温くなったそれも体温よりは低くて気持ちいいけれど、とても腫れが引いている気がしない。 ちらと時間を確認すると、瞬が世理の家を出てから五時間ほど経過していた。約束の時間まではまだ随分ある。 けれど、日を跨いでなお息子を心配して起きているだろう夫妻をそのままにもしておけまい。「世理、帰ろう」「ん」 瞼の半分下がった世理の手を取って立ち上がらせる。手を引かれるがまま、世理が後ろをついて来る。 それがなんだかおかしくて、瞬はくすりと笑った。「どうした?」「いや、この公園で、俺が世理の手を引いて歩いてるのがなんか新鮮で。いつもこうして歩いてるのに」「子供の頃は、ここで泣いてた瞬を俺が迎えに来たもんな」 すっかり普通に話せるようになった世理の声は、振り向かずとも微笑んでいるのがわかるくらいに柔らかい。 いつもの世理じゃなく、昔の世理が後ろにいるのも、瞬にとっては新鮮に思えた。 あの頃よく交わしていた台詞を口にしてみた。一人称も、あの頃のままで。「僕、世理がいないとだめなんだ」 しばらくの無音が、世理が驚いているのだと教えてくれているようだった。けれどくすくすと笑い声が聞こえて振り返れば、薄暗くて見えづらいものの、瞬には世理の両側の口角が上がっているように見えた。「俺だって、瞬がいないとだめだよ」 醜かった共依存がこの日を境に、少し歪ではあるけれど「愛」というものに形を変えた。 それなら世理の左の表情が動いたように見えたのは、きっと愛の奇跡というやつなのだろう。少なくとも、瞬はそう感じた。*「馬渕ー、お前今日暇?」「え?」「今日のコンパこのままだと男だけのむさい飲み会になるんだよ、だから女子をおびき寄せる撒き餌になってくれ」「あんた言い方サイテー。断っちゃいなよぶっちー」 すっかり肌寒くなったある日の放課後、帰り際に瞬を呼び止める声があった。またも目当ての女子に来て欲しいから瞬にコンパに参加して欲しい、という頼みだった。あまりに潔い物言いに寧ろ笑いが込み上げる。「二次会は参加出来ないけど……」「あー、だよなー無理だよなわかって――え、二次会はってことは一次会は……?」「行けるよ」 誘っておきながら、参加するとの瞬の返事に、誘った本人、小幡もそれを聞いていたもう一人、山岸も驚いたように顔を見合わせた。 山岸が唐突に小幡の頬に平手を打ち込む。小幡は怒るかと思いきや「夢じゃない!」とはしゃいでいる。「マジで!? 本当に!?」「うん。場所と時間教えて」「よっしゃー! したらメール送る! ふっふー!!」「小幡はしゃぎすぎ……ていうか、本当にいいの? 益子は?」「ああ、世理なら――」 丁度名前を出したタイミングだった。教室の開いたドアから世理が顔を出したのは。 名前を呼ばれ、瞬はにやける顔を隠しもしないで「ちょっとごめん」と言い残し、世理の元へと駆け寄った。 そんな二人の様子を遠目に眺めながら、山岸も、そして小幡も感慨深く思っていた。「ぶっちー、変わったよねえ。何でもかんでも益子最優先で、絶対コンパとか来なかったのに。笑い方もやわらかくなったと思わない?」「あーね。なんか益子がいい病院見つけて病気良くなったとか言ってたけど。ほら、前より普通に喋るようになったし。それでじゃん? 面倒かからなくなったからとか?」「あれ、でもあの二人夏休み終わってから一緒に暮らしてるんじゃないっけ? 何かそんな話聞いたけど……」「マジで? 仲良すぎじゃね、デキてんのかな」「あはは、まっさかー」 悪気なく好き放題言う小幡たちの声は、もう瞬と世理には届いていなかった。今だけは、二人の時間だ。「瞬ごめん、今日バイト入って帰るの少し遅くなる」「そっか。俺も飲み会に誘われて、一次会で帰るからそんなに遅くはならないけど」「時間どれくらい?」「えっとー……九時には終わるみたい」「わかった。じゃあ迎えに行くよ、車出す」「ありがとう、助かるよ。じゃあまた夜に」 あの日から、随分と朗らかになった瞬を見て、世理は満足気に笑った。双眸を細め、両端の口角を上げた満面の笑みで。「行ってらっしゃい、瞬」 どうか、こんな幸せな日々が二度と壊れることがありませんように。 PR