24 April Narcissus04:お前には必要ない(後編) ※BL※ 時は少し遡る。 校門を出てすぐの所で、沖野は杉江と日野川の間に割って入った。 そのまま半ば強引に同行し、現在は普段乗ることのない、杉江の地元へ向かう電車に乗り換えた。 以前、同じ電車に乗って日野川の家へ遊びに行った時、見慣れない車窓の景色に少なからず胸を躍らせていたのは今も覚えている。 今回それが無いのは、季節柄日没が早まり、窓の外より明るい車内の様子しか見えないから、というわけではない。「で、エコ。何なんだよ、そのモトキって奴の兄貴。犯罪者とか何とか言ってたけどよ」「兄ちゃんが犯罪者かも」。先ほど杉江がモトキとやらの言葉として口にしていた。あの時は勘違いであると続けていたが、学校を出てからの落ち着きのなさを見る限り、それもどうかわからない。 そんな犯罪者疑惑のある謎の男が、どういうわけか別府に接触しようとしているのだ。友人が危険な目に遭っているかもしれないという時に窓の向こうを気にしてなどいられない。 沖野の焦燥を何となく感じ取ったのか、少しばかり落ち着いたように見える杉江は、決して空いてはいない電車の中で、声を潜めて問いに返した。「幹は喋んの得意じゃないし慌ててたから、あいつが何をもってそう思ったのかまでは……ただ、兄貴がかなりやばい奴だってのは知ってる」「やばいって……」「……大学生の時、中学生に手出してたよ。しかも男子」 走行音にかき消されかねない声量で吐かれた台詞は確かに沖野の耳に届き、思わず呼吸音に声が交じった。 同様にそれが聞こえたのだろう日野川の様子をちらと窺えば、普段はとても見られないようなしかめっ面を拝むことができた。 また、大事な誰かを危険人物と関わらせたくない男がここにも一人。「杉江。別府は俺らが何とかするから、お前は先に帰ってろ」 沖野にはまだ彼女などできたことがない。だので妄想での話になるが、大切な恋人が中学生に手を出すような変態と関わり合いになるなど、黙認できることではなかろう。 しかも、これはきっと二人も予想していないことだろうが、沖野には別府がそいつと出会ったのが例のネット掲示板であることもわかっている。 ならば、恐らく杉江が懸念しているだろう事態にまで発展してもおかしくはない。杉江とて、巻き込まれれば無事でいられるかどうか。別府曰く化学教師の岡も「可愛い」と評していたらしいこの友人は、やはりそちらに需要があるようだし。 自分たちとて安全とは言い切れないところもあるが、愛嬌のある非力少年に比べれば逃げ切れる可能性は格段に上がる。「俺も宰に賛成」 いつの間にか友人の恋人枠に収まっていた友人が寝取られる展開など見たくはない。「ほら、二対一だぞ」「いつからこの場は民主主義になっていたのか」 一応、恋人に心配されること自体は満更でもないようで、はにかんだような微妙な顔で「気持ちはありがたいんだけど」と前置く杉江。やはり、どうしても行くつもりのようだ。「俺が行かなきゃ。多分、俺は無関係じゃないから。それに、べっぴーと仲直りするチャンスでもあるしさ」 仲直り云々は半ば冗談だろうが、二人に任せて帰る気は毛頭ないようだ。「はー……だとよ、宰」「そんな気はしてたけどさあ……とにかく、絶対に輩と二人きりにだけはなるなよ」「輩」 普段聞かないような日野川の言い回しに、心中穏やかでないのが嫌でも伝わってくる。思わず沖野と杉江の復唱が重なる。 友人が寝取られる展開ともう一つ、友人が傷害及び殺人の罪に問われる展開も見たくはないと、心の中で強く念じた沖野だった。「なんか、この中で俺が一番冷静じゃね」「そりゃ沖野君ほぼ巻き込まれっていうか……べっぴーとそんな仲良かった?」 仲が良いかと問われれば、「そうだ」と返せるほどでもない。それこそ、いつぞやのこのカップルのような、「仲が悪いわけではないが特別良いとも言えない普通の関係」だろう。 ただ、別府の最も大切だと言う杉江より先に彼の過去について色々聞いてしまったくらいだ。勿論、そんなことは言える筈もない。「だってぇ、心配だったんだもん」「可愛くねえよ」「そういうのは俺みたいのがやるから可愛いんだよ」「おめーのそういうとこも可愛くねえぞエコ」 可愛いだとか可愛くないだとか、男子高校生三人でするには頭の痛くなるような会話を交わしているうちに、今回の目的地が目前に迫っていた。電車から降りると、鬱陶しいほどの暖房が忘れさせてくれていた冬の冷気が三人を含めた駅の利用者を襲う。 沖野と日野川を先導する杉江は、ホームから見える森だか林だか、兎に角木々の生い茂っているそこを一瞥した。「あれが幹の言ってた公園。急がないと、結構広いんだ」「あれのどの辺にいるとかは聞いてねえの?」「特には……ただ、車で行ったらしいから、駐車場で張ってればギリ間に合うかも」 学校でも電車でも、そわそわと落ち着かなかった杉江。階段を上る歩調が見る見る上がっていく。沖野と日野川も切り離されないよう足早に階段を駆け上がる。 階段を上りきった先、杉江の背があると思っていたそこで、サラリーマンと思しき中年とぶつかりかけた。 沖野達の上がってきたのは列記とした上り優先の階段だったのだが、それでも不服だったらしい中年は、よく聞き取れないが暴言だろうことは察せる何らかの言語を吐き捨ててから、ふてぶてしく階段を降りていった。 「んの野郎……眼球上下逆さに付いてんのかよ、上りだぞこっち!」「沖野! そんな場合じゃない、杉江がいない!」 焦る日野川の声に慌てて前を向き直せば、確かに杉江の姿が無い。 いや、まだ間に合う。改札の向こうに杉江の後ろ姿が見えた。 一瞬早く見つけたらしい日野川の後ろについて杉江との距離を詰める。が、しかし。 改札機は赤丸を表示して道を塞ぎ、人目を引く耳障りな電子音を響かせた。 「やっべ、残金足りねえ!」「何してんだ宰!! 俺先にエコ追ってっからすぐ追いつけよ!」 日野川の背後から横に逸れ、隣の改札機に定期券を充てる沖野だったが、その結果は日野川と全く同じだった。「何してんだバカ!」「おめーと同じことだバカ!」 二人が一つしかない精算機に並んでいるうちに、杉江の姿は影も形も無くなっていた。 財布を取り出しながら、日野川が普段よりワントーン低く「杉江、頭に血が上ると訳わかんねえことするからなあ……」とぼやくのが沖野にもはっきり聞こえた。――被害者、増えねえといいな。 真っ先に思い浮かんだぼやきへの返答は、恐らく友人から更に冷静さを奪うだけだろうので、口には出せずに終わった。 * 唇を離すと、惣一は目を細めて別府の髪を撫でた。 するりと指の間を滑る艶やかな髪は闇に溶けきらず、僅かな光を反射して光っているように見える。「望君、髪は地毛?」「うん、地毛だよ」「だよね、すごく綺麗な色をしてる」 求められるまま、求めるまま。欲情に身を委ねるところまではあの頃の自分を再現出来ていると思う。 しかし、こうして褒められても全く持って心は動かされない。素っ気なく「ありがと」とだけ返し、別府は惣一の手を両手できゅっと握った。 早く抱いてほしい。杉江のことも、傷つけたことも忘れてしまうくらい、めちゃくちゃに。「ねえ、そこに見えるのってラブホだよね?」 木々の向こうに見える建物を見上げて指さす。要するに「早くしろ」ということだ。 しかし惣一は、困ったように眉を八の字に下げる。 「そうだけど、あそこはちょっと……」「なんで?」「ほとんどデリヘルの待合室みたいなんだよね。もう少し向こうに行くと別のホテルもあるけど……そっちは部屋数少ないんだ」 まずい、がっつきすぎたか。 明らかにホテルを避けようとしている。惣一がそんな態度を取る理由として真っ先に思い浮かんだのは、「飯はいいから早く抱け」と前のめりに欲しがりすぎたことだ。 後悔しても始まらない。過ぎた肉食アピールをどうフォローすればいいだろうか。 別府が水面下で悩んでいると、惣一は彼の顔の前に車のキーをちらつかせた。 意味を上手く汲み取れず、首を傾げる別府が惣一を見上げる。どことなく、記憶の中の抱かれた男達とは一線を画しているような印象を受けた。何がどうして、まではいまいちピンと来なかったけれど。「俺、マンションで一人暮らししてるんだ。たまたま隣も空き部屋でさ。望君がよければだけど、うちに来ない?」 予想外のお誘いだった。 正直なところ、抱いてくれるならどこでもいい気持ちもあるけれども、自宅まで着いていくのは流石に抵抗がある。監禁だとか盗撮だとか、下手をすれば殺されることだって考えられる。 しかしここで断れば、きっとその辺のホテルへ行く気など無いだろう惣一は帰ってしまうかもしれない。それはそれで、この昂った気持ちをどこへぶつければいいのか。 家まで行かず、しかしホテルは選べない。ダメ元で、もうひとつの選択肢を提言してみたらどうだろうか。 別府は人差し指を立てて、車のキーをそっとなぞった。「そんなに待てないかも。車の中じゃダメ?」 車であれば、万一の時に逃げられる。 別府が危惧したことを惣一が計画していたとすれば、恐らくその準備がなされているのは彼の自宅。でなかったとしても、家よりかは車の方がまだ逃げ道はある筈だ。腕力のない女子供でもなければ、突然死角から襲われるでもないのだから。 尤も、誰かに車の中を覗かれれば一環の終わりだが。「俺は構わないけど、望君はいいの? もし友達に見られたりしたら」「別に、俺の家はここから結構離れてるし。友達も、一人この近くに住んでるけど……」「けど?」「……ちょっと喧嘩してるだけ」「そっか、だから元気なかったんだ」 別府は、自分のことを言われたのだと思った。初めて会ったこの人に、さっき「嫌なことがあった」と話したから。 自分と杉江が喧嘩した話で「元気がなかった」と言われるべきは、ここには自分しかいないから。過去形なのがちょっと引っかかったけれど、言い間違いくらい誰でもする。 他に、その対象がいるなんて思わないだろう。ここまでの流れだけでは――「べっぴー!!」 ああ、違う。違ったんだ。この男が見ているのは、見ていたのは、最初から自分ではなかった。 別府がそう悟ったのは、どこかから走って来たような嗄れ声の、けれど聞き間違いようのない声が自分を呼んだその瞬間。 ここには来ないと思っていた親友が、傷付けて顔向けできないと思っていた大事な人が、よりによってこのタイミングで現れるなんて。 普段しない分余計に動揺が表に出て、背筋が伸び、肩が跳ね上がる。その反動で、見開いた双眸は自然と上を向いた。 自分の遥か後方に視線をやる惣一は、クリスマスプレゼントの包を暴く子供にも劣らないくらいに目を輝かせていた。 整っているその顔立ちがほころんだのを見た瞬間にゾッと皮膚が粟立つのを感じたのは、一種の危険信号か。 最早一切自分に興味を示さなくなった惣一から、別府はじりじりと後ずさって離れる。「あんたは……っ!」 急にがくんと後ろから引っ張られたかと思えば、弱いくせに、杉江は既に満身創痍にしか見えない体を別府と惣一の間にねじ込んた。 見たこともないくらい顔を歪めて怒っている杉江は、喀血しかねない勢いでがなり立てる。 「何考えてんだ! 俺の友達に何しようとした!?」「何って、俺が黄麻君にしたいことだけど?」 二人して、言葉を失った。 杉江は怒りからだろう。別府はと言えば、何も理解出来ずにいる。頭が真っ白になってしまった。 だって、自分がここにいるのはたまたま掲示板に書き込んだからで。あの男と会ったのはそこで約束したからで。これからすることと言えば一つしか無いわけで。 それと同じことを、エコ丸にしようとしてた? だって、エコ丸には日野っちがいて、それはとっても幸せなことで。 どうでもいいと思っていた、ぼんやりとした輪郭の人間が、自分の中で醜く形を歪めていく。 最早別府は眼中に無いのだろう、惣一は視線を杉江から逸らすことなく、悪びれる様子もなくセリフを吐きながら、こちらへと近付いてくる。「黄麻君が悪いんだよ? たった一回――とは限らないけど、ちょっと抱かせてくれたらいいのに。そしたらすぐ飽きるかもしれないんだからさ」「よ、るな……」「家庭教師の授業料、まだ貰ってないしさ? なんなら、色々仕込んであげるよ。彼氏出来たんでしょ?」 伸ばされた手が、杉江の頬に触れるより先に動きを止めた。 さっき自分がされたのと同じように、今度は別府が杉江の襟首を引っ掴み、強引に後ろへ押しのけた。その前に体を割って入れて、惣一の腕を掴む。 数分前まで色目を使っていたのと同一人物とは思えないような、冷たい視線が惣一を刺す。当の本人はといえば、大して気にも止めていないようで、「へえ」と煩わしそうな声を漏らすだけだった。「俺と会おうと思ったのは、俺がエコま――こいつの友達だって知ってたから?」「そうだねえ、それを期待してはいたかな。ほら、君ちょっとした有名人っていうかさ? 俺の周りでも君を抱いたって人多いんだよ、望君」「そりゃあ毎度ご贔屓に。だからって、俺を手篭めにしてこいつにありつけると思ったわけ?」 惣一は口角を上げた。 別府と睨み合っていた視線をその後ろへと投げると、気味が悪いくらいに優しくその名前を呼ぶ。「今言った通り、俺が望君と接触したのは遠からず君に近づく為だよ。この後、黄麻君がうちに来てくれれば、彼には何もしないけど?」「! エコ丸――」 一瞬だけ、動揺が見えた。 杉江がそのまま彼の要求を呑むようであれば、殴ることも辞さない。それで本当に、取り返しのつかないくらい嫌われたって、それはそれで仕方ない。 けれど、杉江は下唇を噛んで惣一を睨み返した。左手でぎゅっと別府のコートを掴んでいて、放す気配は無い。 「幹は……あんたを心配してた」 聞き覚えの無い名前に、別府はまた話題から放り出された気になった。しかしそれでも、惣一が一瞬動揺を顔に出したのを見落としはしなかった。 杉江は、畳み掛けるようにもう一度その名前を出す。「幹があんたの何を知ってるのかは知らない。あんたが裏で何してるのかも俺は知らない。けど、あんたが俺に、俺の友達に妙なことしてあいつがどう思うか……考えてみた方がいいんじゃないのか」「黄麻君は、俺に何かされたとして、それを誰かに言えるのかな? ましてや幹に、俺の弟に。あの子が優しい子だっていうのは、黄麻君も知ってるよね? 自分の兄が友達を傷付けた時、あいつが何するか……多少想像はできるんじゃない?」 言い返された杉江がぐっと口を噤む。 けれど、別府には惣一の方が圧されているように感じた。恐ろしい魔物みたいに感じていた男が、弟だというその名前が出る度に人間の顔をちらつかせるようになった。 今の彼に、ひどいことができるとは思えない。「まあいいよ、気分じゃなくなっちゃった」「は……?」「けど、見逃すのは今回だけだと思ってね。また隙があればいつでも君を落としに来るから。出世払い、いい加減してもらわないとさ」「ああ払ってやるよ、現金耳揃えて幹伝いにな」 杉江の返事に視線だけで返し、惣一はそのまま駐車場の方向へと消えていった。 別府のコートを掴む手に力が入り、その肩にずし、と頭がのしかかる。「怖かったね」と頭を優しく撫でてやると、杉江は声も発さずに一度深く頷いた。 かと思えば、その頭をばっと上げ、別府の正面に回り込んで睨むような真剣な目で向き合った。「それはそれとして、何であいつと会おうと思ったの」 惣一に向けたような、突き放すみたいな物言いではない。けれど、怒っていることは充分わかる。 さて、何と言ったものか。――もう、言っちゃおっか。 どうせ、惣一が言ったことを杉江も正しく理解してしまったことだろう。あいつめ、余計なことまで。 しかしこの際だ。打ち明けて、突き放してもらおう。 杉江もそれで、自分に気を使うようなことはしなくなるだろう。多少潔癖気味な少年にとって、きっと自分は汚れて見えてしまうから。それでもっと時間を自分の為に使うようになればいい。「誰でもいいから抱いてほしかったから」「へ……?」「俺さ、中学から高校入ってしばらくするまでずっと援交してたんだよね」 家は貧しくてお金が欲しい。身体を重ねて形だけでも誰かに愛されたい。 そんな自分にピッタリだった。だから時間と場所の都合がいい適当な男に手当り次第抱かれていた。 つらくなんてなかった。寧ろ、幸せな時間だとずっと感じていた。 最近また、掲示板で適当な誰かを引っ捕まえていて、それが丁度今回はあいつだっただけ。 別府が無感情にそれだけ説明するも、杉江は半分も飲み込めていないようだった。と言うより、頭が理解を拒絶していると言ったところか。 溝にしろ壁にしろ、自分に触れているこのクラスメイトとの間に、あまりに色濃く引かれた線が見えた。「幻滅したでしょ」「幻滅ってわけじゃ……」 自嘲気味に片側の口角を吊り上げる別府に、杉江は失った言葉をなんとかかき集めながらたどたどしく紡ごうとした。結局それも、別府に阻まれてしまったけれど。 杉江の言葉を遮った別府の声は、いつもの聞き慣れた気の抜ける声とは違っていて、彼が怒っているのだと、杉江はここで気付いたようだ。「エコ丸こそ、あいつとどういう関係なの? 普通のお友達じゃないでしょ」 惣一のことを聞かれた杉江の歪な表情が、刃物で腹部を刺されでもしたかのような、苦痛と絶望に染まったそれであることを別府は見逃さなかった。「……言えないようなことされたの」 目を伏せた杉江の口が、何も言わずに閉じられる。 言えないならそれでいい。「言えないようなこと」をされたことだけわかれば、あの男を許さない理由としては十分だ。 去る前に喉笛にでも噛み付いてやればよかった、なんて後悔していると、再び杉江の唇が開かれた。「無理矢理……されそうになった」 覚悟を決めたのか、震える声が寒空の下に消えた。 何を、とは言わずとも、その答えが既に惣一の口にしていたことであるというのは察しがつく。 今度は別府が言葉を失う番だった。「な、んで……」 その先は出てこなかった。言葉にするのにもう少しだけ時間がかかる。 別府の感情が言葉になるまでの間、杉江は顔を伏せて口にも出したくないだろう話を続けた。 その様子が、まるで懺悔でもしているかのようで、別府にはそれがひどく憎らしく思えてならない。「最後まではされてない。キスと、その……前だけ、触られて……その時は奇跡的に逃げられたんだけど、それから時々付きまとわれたりとかして。今回も、俺のせいでべっぴーが危ない目に遭って、本当にごめん……もし、先にこの話できてたら、こんなことにならなかったのかな……」「……エコ丸ん家さ、こっちと反対じゃん。何しに来たの」「助けに来たに決まってんじゃん! あいつがべっぴーと会うらしいって、友達から電話来たんだ、だから――」 乾いた音が響いた。 杉江の左頬に熱が走る。乾燥した冬の空気がぴりぴりと刺さり痛みが増す。 呆然と見開いた目が別府を捉えた。 見たことがないくらい怒りに歪むその顔を、杉江は「泣きそうだ」と思って眺めていた。「……馬鹿じゃないの。俺は好きであいつと会ってた。けどお前は危ないってわかってたんでしょ?」「だから助けに来たんだよ」「それが馬鹿だって言ってんの。エコ丸にとって大事なのは誰? 日野っちでしょ、俺じゃないでしょ。何で俺の為にわざわざ危ない真似すんの!? 意味わかんない、日野っちがいれば俺なんかいらないじゃん! 放っておけばいいじゃん!」 感情に言葉を付けた途端、止まらなくなった。 ここ数日間ずっと溜め込んでいた言葉も合わさって、破れた砂袋みたいにぼろぼろ言葉が溢れては杉江に投げつけてしまう。 漸くそれが止まったのは、物理的なカウンターを食らってから。 杉江の頭突きが、別府の顎に思い切り打ち込まれた。腕力が無い分本気の攻撃に、別府はバランスを崩し尻餅をつく。 睨み上げた杉江はあまりにも悲しそうな顔をしていた。 ああどうして。そんな顔をさせたくないのに。この世の悪いものから断絶された、幸せな世界で生きていてほしいだけなのに。「そりゃさ、日野川は大事だよ。大事に決まってんじゃん。けど、それで何でべっぴーがいらないなんてことになるの?」「なんでって……」 生まれてからずっとそうやって生きてきたから。 邪魔にならないようにすみっこで、縮こまって生きてきた。愛されたいときには、身体という代償を払って。 誰かのそばにいていい時は、「いいよ」と言われた時だけ。けれど、自分より大事に思う人がいるのなら、そっちといた方がいいに決まってる。その時間を奪うということは、即ち「邪魔」になるということ。 母さんを譲ったから、弟は素直ないい子に育った。 我儘を言わなかったから、母さんを余計に苦しめずに済んだ。 時に、自分を殺すことだって、人として必要なことだ。だから、杉江と日野川の邪魔にならないよう、今回もそうしただけ。 それが正しい生き方であると、今でも勿論思っている。思っている筈なのに、どうしてもここで口には出せなかった。 黙りこくった別府に視線を合わせるよう、杉江は地面に片膝をついた。薄く笑みを浮かべてはいるものの、やはりどこか悲し気に見える。「べっぴーがさ、また俺のこと嫌いになったなら距離置かれても仕方ないと思うけど……違うんでしょ?」「……嫌いになるわけないじゃん」「ありがとう。そしたらさ、今まで通り俺に時間割いてよ」「それでいいの……? だって、俺といるより日野っちといた方が……」「だから何でそうなんのさ。日野川は日野川。べっぴーはべっぴーでそれぞれ一緒にいてくれよ」――やっぱ、住む世界が違うわ。 つらいこと一つない、なんてことは無いだろうけれど、それでも愛されて幸せできらきら輝いた半生を送ってきたのだろう。 けれど今、そんな世界から手を差し伸べられている。一緒にいてほしいと、我儘を言われた。 特に何をしろと言うわけでもない。おまけに恋人までいるくせに。「……あとで『やっぱ日野川いるからべっぴーいらない』とか言われたら流石に泣くからね」「言わないよ」 苦笑いの杉江の手を取って、しかし彼の腕力だけでは不安だから殆ど自分の力で立ち上がった。 こうして立って向かい合うなんていつ以来だろう。ここ最近はずっと日野川との時間を奪わないよう、精神的にも距離を置いていたからか、数年ぶりのような懐かしささえ感じる。 守らなきゃいけないと、弟みたいに思っていたけれど、そういえば自分より背は高いんだった。そんなことさえ忘れていたなんて。「仲直りだね」 へにゃ、と笑うのはいつものことで。それなのに、ずっと思い出せずにいた笑顔だった。 最後に見た悲しそうな顔ばかりが脳を占めていて、一番見ていた筈の表情さえ消してしまっていた。 帰ってこられた。大事な、大事な親友の隣に。 もし。もし本当に、自分が杉江の隣にいちゃいけなかったとして。自分がいない方が、彼が、彼らが幸せに生きられたとして。 離れたくないと気付いてしまった。恋人が誰であれ、一番大事なのが日野川だとして、それでも「親友は俺なんだ」と胸を張って言えるくらい、ずっとずっと隣で見守っていたい。 ひどい我儘だ。他の誰でもない、自分の為だけの願い。 そんな我儘を、杉江は許してくれた。一度突き放した自分に、もう一度手を伸ばしてくれた。――あ、やばい。 瞬きまでの一瞬、視界がぐにゃりとねじ曲がった。 と、この空気を台無しにするようなかすれ声が二人の耳に届いた。「つかさぁあ! いたぞおお!」「マジかー」 それが沖野と日野川の声であることに気付くなり、杉江がばつの悪そうな声を漏らしたのが聞こえた。 ちらと視線を移せば、その声にぴったりな真っ青な顔をわざとらしいくらいに引き攣らせているのが見えた。 暗がりの中から少しずつ滲み出てくる二人組の姿。案の定、沖野と日野川だ。 二人は別府と目が合うなり、安堵の表情を無意識だろうが浮かべた。 が、その直後に怒りを顕にして杉江に向かって走り寄ってくる。 すぐさま逃げ出した杉江だが、残念なことに元陸上部だと言う日野川から逃げられる筈がない。「お前なあ、あいつとは二人になるなって言ったのに何で一人で行っちまうんだよ」「この公園アホみてえに広いし、俺らずっと走り回って探してたんだぞ」「ご、ごめん……だって気付いたら二人ともいないし……どうしようと思ってたらべっぴー見つけたし……」「せめて電話くらい――え、顔腫れてないか」「ひ、日野川真顔こわい……これは違くて、あの、大丈夫だよ……」「えーっと……ごめんね日野っち、それ俺がやったの」 事情を知らなければカツアゲにも見える友人達の姿に、別府は若干距離を置きつつも話に割って入った。 顎が赤くなっている以外に目立った外傷は見当たらず、態度も見知った柔和なものに戻っている。加えて、この場に惣一――二人からすれば見知らぬ男の姿が無いことで、ささくれ立っていた空気も少しばかり和らいだ。「仲直りの握手の代わりっていうか……一発ぱちーんと」「そんな軽い音じゃなかったよ」「エコ丸の頭突きよりかは軽かったと思うよ」 頭突きの件で、保護者よろしく「ごめんな」と謝る日野川はわかる。ここまですっ飛んできた杉江が心配で着いてきたのだろうから。 けれど、もう一人はどういうつもりなのだろうか。「オッキーは何しに来たの?」「言い方よ。お前人が折角来てやったのにあまりにひでえぞ」「沖野も別府が心配で来たんだよ」「オッキーが?」 自然と見開かれた目を向けると、沖野は気まずそうに顔を背けた。 あえてしつこくじっと視線を送り続ければ、案の定大げさに苛立っている風に振舞って、「っせーな、悪いか」と吐き捨てた。 悪いとは思っていないけれども。「びっくりしてるんだよ。オッキーは俺のこと嫌いになったと思ってたから」「……んなこと言った覚えはねえぞ」「――わっかんないなあ」「そらどーも、お互い様じゃねーの。おら、解決したんなら帰るぞ」 頭を掻きむしって踵を返すと、足早に通りに向かって行く。その後ろから杉江が「ツンギレ」と小馬鹿にしたように呟けば、またそういうゲームみたいに短い距離を追い回してすぐに捕まえたけれど。「ほら、帰るんだろ? 別府も行こうぜ」「あ、うん……ねえ、日野っち」「うん?」 ギリギリと致命傷にならない程度に杉江を締め上げる沖野。二人に聞こえないよう、別府は日野川との距離をそっと詰めた。 口元に手を添えてひそひそと話せば、杉江の鳴き声じみた悲鳴にあっさりかき消されてしまった。けれど、だからこそ距離を詰めたのだから、難なく日野川の耳には届いたように見える。「さっき言ってた『あいつ』のことってエコ丸から聞いた?」「ああ、付き合う前に……さっきそいつの弟から電話があって、別府と会うらしいって聞いてさ。それでみんなで来たんだよ」「……それで、止めなかったの?」「止めたけど聞かねえんだ」 困ったように、けれど「そういうとこも好きなんだ」と書かれた顔で笑った。 馬鹿だな、みんな。危ないって知ってるなら関わらなきゃいいのに。そう内心悪態ついても、不思議と口角が上がりそうになって、胸の内が暖かくなったように感じた。 これが「満更でもない」というやつか。そういえば、杉江に初めて「友達」と呼ばれた時もこんな気持ちになった気がする。「無鉄砲なのはいいけど、あいつ自分が超弱いって知らないのかな?」「知ってても動いちまうんだろうなあ」「少年漫画のヒロインならファンから叩かれるタイプだよね」「その分俺が好きでいるから」 さらりと惚気られた。一瞬の間を置いてから「言うねぇ」と肘で小突くと、流石に照れた様子を見せていたけれど。 改めて、彼になら親友を幸せにできると思えてしまう。保護者みたいなことを思っている自覚はある。けれど、本気でそう思うのだから仕方あるまい。「そんな日野っちに特別任務だよ。エコ丸、俺を庇って真正面から対峙したんだ」「え、退治――」「向かい合ったのー。面と向かって言い合ってたのー。で、多分メンタルのダメージがでかそうだからさ。できるだけそばにいてあげて」「あーほんと後先考えないよなー……わかった、杉江ん家さえ問題なければ泊まるわ。一緒にいてくれてありがとな、別府」「杉江と」という修飾語は言わずとも聞こえた。 この男も大概おかしいと思う。自分がいると、折角の二人の時間が削られてしまうのに。今日なんて、自分のせいで恋人が危険に晒されたというのに。どうして礼を言えるのだろう。 馬鹿みたい。けれど、やはり悪い気はしない。――ああ、そっか。 日野川の背中を押して、杉江の救出に向かわせた後。一人でぽつんと立っていても、惣一と待ち合わせをしていた時のような孤独感が無い。 杉江だけだと思っていた。だから他の「友達」と呼べる人達はみんなおまけで、向こうも同じ気持ちでいるんだと。 けれど今日、自分が危ないからと、唯一の親友が助けに来てくれた。その恋人も、友達も。 お陰で少し、彼らに対しても心が開けたようだ。随分と時間がかかってしまったけれど、漸く気付くことができた。 彼らは口にしていないだけで、ずっと欲しかった言葉をくれていた。きっと、前からずっと。「沖野、杉江返せ」「ヒェ……彼氏こわ」「ひのかぁ……」「よしよーし。なあ杉江、今日お前ん家泊まっていいか?」「え、いいの? ……あ、ち、ちょっと待って、確か今日母さん帰ってきてるから聞いてみる」「おい、お前ら眼前でイチャつかねえっつったじゃねえか」「だから我慢したじゃんさぁ」 携帯電話を取り出し、家に電話をかける杉江の後ろで、顔を顰めた沖野が振り返る。 その先にいた別府と目が合うなり、眉間の皺は刻んだまま空気を掻くように手をこまねいた。「何ボーッとしてんだ。帰んぞ、途中まで送ってやる」 突き放されても追ってきて、危険だからと助けに来て、離れて居ればこうして呼んで。どうして他人の自分にそこまで関わろうとするのか、全くわからなかった。 そうか、そうだったんだ。それらの行動は彼らにとって当たり前のことで。 自分がずっと欲していた言葉だってそうだ。 きっと声に出すほどのことでもないのだろう。けれど確かに、感じ取った。『ここにいていいんだよ』「うん」 きっと誰も気付いてないけれど、別府望は生まれて初めて本心だけの笑顔を見せた。 PR