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03 November

Narcissus01:君とはあまりに違うから

※BL※
※直接描写はありませんがメインキャラがモブとやってました※


 ナルキッソスとかいう奴が嫌いだ。そう、ギリシャ神話に出てくる、あの水仙に生まれ変わったとかいうあいつ。
 自分を好きなことは悪い事じゃないけれど、それは他者を蔑ろにしていい理由にはならない。
 だというのに、こいつは人から貰ったものを侮辱し、挙句は「退屈だ」などと吐き捨てて一人の妖精を実質殺してしまった。
 俺がそれを知ったのは中学生の頃。塾の先生の、授業とは関係ない小話の一つとして話していたのを聞いただけ。
 先生の話ではナルキッソスの心情だとか何だとかは一切触れていなかったし、その後読んだ文献でもそれらしいことは書いていなかった。けれど、奴の最期を見た限りでは反省の一つもしなかったように思える。
 ああ、なんて愚かな奴。美しさは武器だと思っているのだろうか。美しければ愛されるのは当然だと思っているのだろうか。
 愛すること、愛されることの難しささえも知らないなんて。
 
*  
 
   
 昼食を終え、残りの昼休みは好きな音楽を聞きながら、特筆するようなこともなく平穏に過ごすつもりだった。
 そんな沖野桜哉を襲ったのは、突如として現れた家庭科教諭の杉崎に音楽プレイヤーが奪われてしまうという悲劇。
 理解が追いつかず絶句している沖野に、杉崎は呆れを隠そうともせず、その頭頂部をぺしっと軽く叩いた。
 
「あのなあ……携帯は持ってきて良いっつってるけど、そりゃ連絡手段のことで音楽聴く為のモンはダメだっつーの」
「れ、連絡手段っすよ! ……モーリス信号? ってやつで……」
「そりゃモールス信号のことか? んなもん覚えるより大声出した方が早いからダメだな。放課後職員室まで取りに来い」
「いーやーだー! これは俺の臓器の一部で――」
「往生際が悪い! 放せ! 制服汚れんぞ! ああしつこい! 今度の調理実習お前だけ杉江と同じ班にするぞ!」
「放課後取りに行きます」
「残念だったな杉江、次回もお前は見学だ」
「今の流れで俺が傷つく必要ありましたかね先生?」
 
 杉江にとっては悲劇となってしまった茶番劇を終え、沖野は大人しく自分の席についた。雑巾の役割を果たしたスラックスを見下ろすと、不機嫌そうな母の溜息が聞こえた気がした。せめてガムテープか何かで埃を取れないだろうか。
 などと思っている所へガムテープを差し出してくるのだから、日野川はもう父兄を通り越して未来から来たナントカロボットなのではないかと最近思い始めている。
 さて、五限まで時間はあるし、そもそも今日このクラスでは家庭科の授業は無い。だと言うのに、何故杉崎がここに来たのか。
 それを誰かが聞くより先に、本人の口から「おっとそうだった」という枕詞を添えて、元々の要件を本人に伝えた。
 
「別府、岡先生が今日の放課後残るようにってよ」
 
 別府は、杉江の頭を撫でていた手を止めると杉崎から受け取った伝言に対し、「はーい」と軽く返事をした。
 
「最近よく残ってるらしいな?」
「勉強教えて貰ってるみたいですよ」
「デース」
「お前でもわからないところあるんだな」
「日々勉強ですよ先生~」
 
 言葉の勤勉さに相応しくないだらしのない座り方で、別府がいつも通りのへらへらとした笑顔を浮かべている。
 それも彼らしさの一つであり、気にしたところで徒労に終わることは杉崎も重々承知しているようだ。沖野や日野川であれば「なんだその顔」と思わず口に出してしまいそうな光景に、彼が返したのは「そうか」という一言だけだった。
 
「家庭科は受験に関係ないからな、あんまり役には立たねえだろうが、何かあれば力になるぞ」
「先生、エコ丸の料理の腕なんですけど」
「悪い、人智を超えない範囲で頼む」
「ちょっと」
 
「調理実習は学校側から見学を強制させられている」という前代未聞の殺戮兵器もとい問題児である杉江は、この杉崎という教師が嫌いな訳ではない。寧ろ、生徒の目線に立って考えてくれることも少なくない彼に対し、好印象を抱いているくらいだ。
 だからといって、ちょっと料理が苦手なことをこうして度々弄るのはひどいのではなかろうか。
 そんな愚痴を妹に漏らしたのはもう一年も前のことか。その時は確か、「弄られるだけありがたいと思いなよ。私が家庭科の先生ならお兄ちゃんとは目を合わせられない」と言われた。「呪われそう」というトドメの一言を添えられて。
 
「そっか、杉江と別府は去年も杉崎先生が家庭科持ってたのか」
 
 日野川がジュースのパックをひらべったく潰しながらそんなことを言ったのは、杉崎が去った後のこと。
 去り際に、沖野に音楽プレイヤーを見せつけるのとは反対の手で、教卓に日誌を置いていたのを見るに、元々の用事はそれだけだったのだろう。
 
「そうだよー」
「ああ、最初の調理実習驚いたもんな。『杉江、今年もお前は見学だ』って」
「教わらないといつまで経っても出来ないじゃんねえ」
「教えてもいつまで経っても出来ないどころの騒ぎじゃないんだから仕方なくない? バイオハザード引き起こすし」
「そ、そこまではしないよ」
「ま、まあ、人それぞれ得手不得手はあるしな。杉江はやる気出せば大体のことできるしいいんじゃないか……」
「日野川ぁ……」
 
 料理に関するフォローは一切なかったものの、この場で唯一自分の味方たる発言をくれた日野川の肩に、杉江が自らの頭を流星が如く打ち込んだ。日野川の口からは衝撃からくる悲鳴が短く漏れ出した。
 杉江としては感謝の意を表しているのだろうが、第三者から見れば――恐らく日野川からしても――攻撃にしか思えない。
 唯一、二人の関係を知る別府を除いて。
「?」
 
 ふと、沖野が視界の端に入った別府をちらと見やれば、そこには彼らしさのない表情があった。「儚げな美少年」という描写がぴたりと当てはまる、ふわりとどこかへ消えてしまいそうな切ない顔。
 思わず目を奪われたのも束の間、瞬きの後にはいつも通りの緩く口元が弧を描いた緩みきった笑顔に戻っていた。
 見間違い、だったのだろうか。
 
「そういやエコ丸さぁ、そろそろ妹ちゃんの誕生日だよねえ?」
「何で別府が杉江の妹の誕生日知ってんだ?」
「去年プレゼント選ぶの手伝ってもらったんだよ」
「そういうこと~。つって、俺は知っての通り暫く勉強漬けで今年は手伝えそうにないわけよ。日野っちにでも代理頼んで」
「そっか。何か迷ったらLYNEで聞くかも」
「おっけー」
 
 ああ、なるほど。
 特待生という立場上、どうしても勉強を優先しなければならない。ただでさえ放課後は何かと用事があるらしい杉江と過ごす時間が余計に減ってしまったのだ。
 要するに、別府は杉江と遊べないのが寂しいのだろう。
 見た目もあって、どこか女子供のような雰囲気を感じさせる二人だ。そういった感情があってもおかしくはない。と、思う。
 そんな雑な推理で沖野は充分納得できた。出来たはず、なのだが……。
 しかしどうも、その推理は間違っていたらしい。
 
「最近べっぴーに避けられてる気がする……」
 
 杉江がしょんぼりとそんなことを口に出したのは放課後のこと。別府が化学準備室に行った後だ。
 先日、休んだ時に掃除当番を代わってくれた結城の代わりに清掃に行った日野川を待っている間。適当な掃き掃除だけが終えられた教室の片隅で、今日も今日とて授業の半分以上を寝て過ごした杉江は沖野相手にそんな愚痴を吐いていた。
 調理実習から帰ってこない隣のクラスをまだかまだかと待つばかりの沖野は、仕方なしにその愚痴に付き合ってやらざるを得ない。
 何と声をかけてやればよいやら。
 
「……ケンカでもしたのか?」
「すると思う?」
「思わねえから聞いてんだろ」
 
 喧嘩どころか、別府が怒ること自体想像がつかない。
 杉江自体、程遠くはないにしろ自分勝手な人間ではないし、喧嘩に至るまでの激昴など見たことがない。だからこそ、少し前に日野川に対して冷ややかな態度を取っていたのが珍しくも恐ろしかったのだけれども。
 別府に至っては、呆れたり文句を言ったりはするものの、声を荒らげたり手を上げたりなんてしている様子は、沖野を含め彼を知る人間には到底想像が及ばない。
 おまけに杉江に対して少々過保護なところがある。それが一方的に杉江を避けていると言われれば、逆に喧嘩くらいしか考えつかないのだが。
 
「……いや、実際のところ心当たりはあるんだよ」
「やっぱり何かしたんじゃねえか」
「うーん、したっていうか……何ていうか……あー、ほら、俺最近日野川と仲良いじゃん?」
「……まさか、『べっぴーヤキモチ妬いちゃって~』とか言わねえよな」
「はは、似てねえ」
「はっ倒すぞ」
 
 沖野の挟んだ物真似を嘲りながらも、「ヤキモチとは違うんだよねえ」と、しっくりくる表現を探し出した杉江を後目に、沖野は隣のクラスが文句を言いながら戻ってきた気配を感じた。
 杉崎ももう職員室に戻っている筈。没収された臓器の一部を迎えに行く頃合だ。
 
「悪いエコ! また明日聞いてやるよ!」
「聞いてくれんだ、ありがとう。いってらっしゃーい」
 
 ぽつんと一人残された教室。沖野とほぼ入れ替わりに戻ってきた掃除当番たちから恋人の所在を聞いた杉江は、彼を待ちながら頭の中で考えを整理していた。
 
――べっぴー、多分俺と日野川が付き合ってるから、気使って距離置いてるんだよね。とは言え、それを沖野くんに言うわけにはいかないし……どう言えばいいんだろうなぁ……。
 
*
 
 
 相手が若い杉崎でよかったかもしれない。
 職員室に入るなり、杉崎は隣の席の中高年教師と話していて、呼んでも「ちょっと待ってろ」の一点張りだった。
 あからさまに苛立ちを見せる沖野の元に漸く音楽プレイヤーが戻ってきたのは、その中高年教師が顧問を担当している部活に向かった後のこと。
「呼んどいて悪いな、用事無くなったわ」と杉崎に肩を叩かれた時は何のことかと思ったが、直後に鞄のポケットに半ば無理やりそれが詰められた。おかえり臓器。
 
「もう見つかんなよ」
 
 ギリギリ聞こえる程度の声量で、そんな台詞が耳に届いた。
 さっきまで無視をされ続けたのは、先の教師にこれを返すのを見られないようにだったのだろう。見つかれば、少なくともまたお小言の一つでも頂戴する羽目になっていたろうから。いやもしかしたら、他の教師に見つかれば、改めて没収か廃棄されかねない。
 断固として惚れはしないと断言するが、それでもかっこいいと思ってしまった。こうやって当たり前のように相手のことを考えられる男こそ、手本にすべき大人ではなかろうか。
 
 いやまさか思うまい。杉崎に憧れを持ったばっかりに運命が大きく変わってしまうなんて。
 
「あ、沖野くん。ちょっといいかな?」
 
 職員室を出るなり呼び止められた。沖野たちのクラスの化学を受け持っている、谷本だ。
 気の弱そうな谷本は沖野を見るなり、目の前に蜘蛛の糸でも垂らされた亡者のような顔をした。
 前言を少し訂正しよう。確かに杉崎への憧れもあったが、この顔で頼み事をされて断ることなどできようか。
 
「別府くん、岡先生に勉強教わってるんだよね? どこでやってるか聞いてない? 岡先生にテストの相談があるんだけど……」
「知ってるっすよ、呼んできます?」
「いいのかい?」
「旧校舎なら途中にあるんで、帰るついでに化学準備室寄りますよ、じゃ」
「ありがとう助かるよ! ……ん? 化学準備室?」
 
 谷本が疑問に思うより早く、沖野は足早に廊下の先の階段を下りて行った。
 だので、彼の耳には届かなかったのだ。同じ化学の教師である谷本が、わざわざ生徒の沖野に岡の居場所を訊ねた理由が。
 
「化学準備室、鍵掛かってたから聞いたのに……」
 
 谷本のぼやきを聞き逃した沖野が安請け合いを後悔したのは、旧校舎の階段を三階まで上がってからのこと。
 化学室や家庭科室、音楽室なんかが五階、六階に並ぶ古びた校舎にはエレベーターなど勿論設置されておらず、化学準備室まで行くには階段を上る他ない。
 別に、五階まで階段を上る程度苦でも何でもない。男子高校生の有り余る体力を甘く見ないでもらおうか。
 では何故沖野の顔面が真っ青に染まっているのかといえば。
 この旧校舎の五階、六階は先述の通り特別教室が並んでいる。そして一階には売店が。パンから文房具までを取り揃えている、学生には欠かせない場所だ。
 では、二階から四階は?
 そこには数年前まで、普通の教室があった。しかし、新校舎設立に伴い、教室は全てそちらへ移転。使われなくなった空き教室だけが残った。
 便宜上、“自習室”と銘打たれているものの、その名の通り使われることは滅多にない。受験生たちも今の時期は自宅学習期間として、登校すらしていない。テストも近くないので、生徒がわざわざ勉強に来ることもほとんどない。
 そこへ、人気のない場所を求めるカップルなんかが入り込むのだ。
 元々の教室に取り付けられていた鍵が放置されていることも、「勉強に集中できるように」と申し訳程度に取り付けられた窓の目隠しも、それを助長しているのだろう。
 イチャつくくらいなら百歩譲って目を瞑ろう。けれど今、三階を通過した沖野の耳には、上ずった男の声が届いてしまった。誰かがよろしくやっているようだ。
 気分は魔の巣窟に放り込まれた村人A。とっとと用件を済ませて帰りたい。その時は是非、別府と先生にも同行してもらいたいものだ。
 心と足音を殺し、なんとか五階まで辿り着いた沖野。彼が化学室に足を踏み入れた瞬間、どれだけ安堵したことか。
 あとは、奥にある準備室のドアを開け、中にいるだろう岡に声をかければミッションコンプリート。
 一気に軽くなった足取りでドアに向かって歩き出した沖野だったが、再度その足を止めてしまった。
 静かな化学室の中で、妙な違和感を覚えてしまったのだ。
 
――あんだけ自習室があって、化学室も誰も使ってねえのに、何でわざわざ準備室なんかで……?
 
 片付けの手伝いもさせられている、と別府は言っていたけれど。それにしたって、勉強まで準備室でする必要があるだろうか。
 さっき妙な声を聞いたせいか、嫌な予感が胸をざわつかせる。
 いやいやまさか。さっき職員室でちらと見た岡の机を思い返す。
 妻と娘と思しき女性と写った、幸せそうな写真が飾られていたじゃあないか。女子生徒がいないからといって、わざわざ男子生徒に手を出すほど困っているとも思えない。
 考えすぎているだけだ。そう思いつつ、いまいちこの先の一歩を踏み出せずにいる沖野を我に返したのは、扉の向こうから響いた甲高い音と怒鳴り声。
 別府の声だ。普段大声自体滅多に出さない別府が、扉越しにはっきりと聞き取れるほどに声を張り上げている。
 先の甲高い音は、薄い硝子が割れる音か。とすれば、扉の向こうではあの別府が大暴れしながら教師を怒鳴りつけている。しかも、その内容はなかなかに信じ難いものである。
 背中の皮膚が「逃げろ」と引っ張ってでもいるかのように粟立つ。けれどもう遅い。驚きのあまり硬直した時間が長すぎたようだ。
 扉の向こうから、声量の戻った別府が近付いてくるのがわかる。もう逃げ隠れする時間は無さそうだ。それならば。
 
「じゃ、片付けよろしくね先生」
 
 態度も口調もいつも通りに戻った――と思われる――別府が、扉の向こうから顔を覗かせた。
 流石に予想外だったのだろう、沖野と目が合った一瞬だけは目を見開いたものの、またすぐにいつもの眠たそうな半開きに戻った。下手に慌てられるよりかは、こちらの方がやりやすい。
 
「よ、よう……なんかすげえ音したけど、大丈夫か?」
「……うん。ちょっとビーカーとか落としちゃってさ。やっちゃった」
「ったく、気ぃ付けろよ。っと、岡先生、で合ってるか? お前に勉強教えてんの。谷本先生が捜してたから呼びに来たんだけどよ、中いるか?」
「うん、いるよ。先生聞こえたっしょ? 早く戻った方がいいんじゃない? じゃーね」
 
 平静を取り繕った岡らしき男の声が準備室の奥から聞こえた。
 これで用件は済んだ。谷本には「帰るついでに呼んでくる」とだけ言い残してきた。そもそも自分が岡に付いて職員室まで戻る必要は無い。
 
「別府、帰ろうぜ」
「え、オッキー俺のこと待っててくれたの? かーわいー」
「んなわけあるか」
 
 別府は、どう見てもいつも通りだ。それがまた気味が悪い。
 何で、どうして。だってお前は岡に――
 
「ていうかオッキー、先生に頼まれてわざわざ5階まで来たの? 意外に律儀だよね」
「…………」
「オッキー? 意外とか言ったから怒っちゃった?」
「ちょっといいか」
「へ?」
 
 何も知らない、聞いてないフリをするつもりだった。それで、明日からまたいつも通りに過ごせばいいと。妙なことに巻き込まれるのはごめんだと。
 それじゃいけない気がした。
 今も平気そうな、何でもないような顔をしているこいつが、いつかは誰かに助けを求めるとも思えない。
 それなら今自分が。偶然とは言え、それを知ってしまった自分が助けてやらなくちゃならないのではないか。
 別府の腕を引き、4階の自習室に隠れるように連れ込んだ。鍵も、念の為カーテンもかける。
 別府はきょとんとした顔で瞬きを繰り返すと、合点のいったように、両手の平をぱちんと合わせた。
 
「次はオッキーが相手かぁ。いっつも『俺は女子にモテてえ』って嘆いてるクセに~。遂に諦めたの?」
「馬鹿言ってんな!」
 
 普段通りにおどけて見せる別府とは対照的に、普段見せないような剣幕で沖野が詰め寄る。
 別府の胸倉を掴んだ右手は、ほんの一瞬だけ強ばると、すぐにぐしゃぐしゃになった襟元を解放した。やり場のない手は苛立ちを孕んで握りしめられる。
 何と言葉をかけて良いかわからない。浮かんでは消える言葉を掴み取れず、ぱくぱくと開いては閉じる沖野の口からは、結局それらしい言葉は何も出てこなかった。
 沖野の様子に、別府はすっと目を細めた。
 
「うそつき。やっぱり聞いてたんじゃん」
「……聞こえるくらい、お前の声がでかかったんだよ」
 
 尚も茶化す態度に、最早頭痛さえしてきた。人が真剣にお前の為に怒っているというのに。
 頭を掻き毟る沖野は、言葉を選ぶのをやめた。
 
「お前……エコを人質に取られてんだろ」
「え?」
「だから岡と……その、そういうことさせられてたんじゃあねのかよ」
 
 別府の長い睫毛が数回揺れる。
 完全に他人事を決め込んでいるこの張本人がさっき怒鳴り散らしていたのは、そう受け取れるようなことだった。
 
『杉江に何かしてみろ、今までのこと全部学校にバラすからな! あんたは今まで通り俺だけ抱いてればいいんだよ!』
 
「杉江」という呼び方も相まって、とても別府の台詞とは思えなかった。
 それでも声は別府のものに違いなく。同時に、彼が岡と関係を持っているという“嫌な予感”が的中していたことが証明されてしまった。
 強要されている割には強気だったが、この年頃の男ならばそう珍しいことでもないだろう。多分、きっと、恐らく、そうであってほしい。
 そんな、沖野の願望にも近い推理は、別府のけたけたと笑う楽しげな声に一蹴された。
 ああ、17年の人生でこんなに残酷な笑い声があったろうか。
 可笑しそうに、沖野の肩をばしばしと叩く別府は、沖野の挙げた自身の台詞についての説明を始めた。それはもう、平然と。
 
「いやいや違うって。エコ丸の話は俺が帰る直前で、あいつが急に振ってきたの」
 
『お前のクラスの、杉江って言ったか? 文化祭で女装してたろ。あの格好で相手してくれないか口きいてくれよ。普段も可愛いには可愛いんだが、女装してた方が好みなんだよな』
 
「許すわけないじゃんそんなの? だから怒ったんだよ」
「……つまり、ただ他の奴に興味持たれたのがムカついたってことか?」
 
 ああなんてこと。岡がとんだゲス野郎で、別府がその身を犠牲にしてでも親友を守る可哀想な被害者であったならまだよかった。沖野の精神面においては、であるが。
 しかしそれはつまり、最近こっそり付き合っている教師が自分以外、それも自分とはタイプの違う親友に興味を持ったものだからあんなにキレていたと。
 心配して損した。幻滅した。溜息をつくことさえ億劫だ。
 しかし、沖野の思考はまたも悪意なく否定された。
 
「違うよ~。あの……岡先生だっけ? あの人も結構遊んでるみたいだしね。別に誰に興味持とうが知ったこっちゃないけど、エコ丸だけは絶対許さないから」
「……ん? は? え、お前、岡先生と付き合ってんじゃねえの?」
「え? 違うよ何で?」
 
 肉体関係にあるのなら、付き合っているのが当然ではないのか。それをどうしてそんな意外そうな顔で否定されねばならないのか。
 自分が間違っているのか? 自分がおかしいのか?
 混乱するばかりの沖野の様子に、別府は苦笑を浮かべた。
 
「あー、オッキーってば、予想に反してその辺“ちゃんと”してるよね」
「あぁ!?」
「俺とは育ちも考え方も違うってこと」
 
 元より垂れ下がっている別府の眉尻と目尻。特に変わった様子のないその表情に哀しみの色が見えた気がするのは何故だろう。
 その理由がわからず、考えるより先に沖野は口に出してしまっていたようだ。
 
「なんで……」
「なんでって聞かれてもなぁ。そうだなあ……長くなるけどいい?」
 
 別府は、自分の後ろの椅子を引くと、沖野の肩を軽く押してそこに座らせた。自分はその机を挟んだ反対側の椅子に腰を下ろす。自然と向き合う形となった。
 
「オッキーには特別に聞かせてあげよう。別府望、十七年の人生のダイジェストだよ」
 
 気付けば日が傾いている。橙色の西陽が、別府の背後の窓から差し込む。
 逆光となる筈の別府の顔は、教室中を反射した光に照らされはっきりと見える。
 沖野には、夕陽が別府の体をすり抜けているように感じられた。

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