12 October 太陽は明日へ向かう ※BL※ ※本番描写はありませんが、一部モブ姦をにおわせるシーンがあります※ 「エコ丸おめでとう~」 二日振りに登校するなり、親友に祝福された。 何に対しての祝福か。一昨日日野川が「別府から貰った」と鞄から取り出したものを思い返せば、容易に想像がつく。 顔をかあっと赤らめた杉江は、親友の白い頬を両手で思い切りぎゅっと挟んだ。 「いひゃいよえひょわりゅ~」 「その話は教室ではやめてもらおうか……!」 「えー、ひゃめらろ~?」 「公言しない方向でいくんだよ」 ちぇー、と不服そうに唇を尖らせた別府は、それでもいつも通り杉江の嫌がる事は不必要にやったりしない。代わりに、ポケットから取り出した携帯電話に視線を落とすと、かこかこと何か打ち始めた。 誰かにメール? なんて思って待っていると、別府は打ち終えた文章を杉江に嬉々として見せた。 『ご婚姻おめでとうございます』 「こ……っ婚姻はしてない!!」 「何だ日野川の次はエコに彼女か!?」 「彼女もできてない!!」 うっかり声を大にして反論すれば、案の定教室中の視線を集めてしまった。どこからともなく飛んできた、呪いを孕んだ言葉には、一見悲しみを帯びた、しかし実の所そうでもない宣言を返してやると、何故か皆が納得して場が収まってしまった。 「……別にいいんだけど、俺の顔はそんなに女子受けしないかね?」 「女子受けはすると思うけど、好きな人より友達で終わる感じ。一緒にご飯は行くけど絶対割り勘みたいな。『これ美味しい~杉江くんにも一口あげる~』ってなるけどそこに恋は生まれない」 「ねえその妙に納得する具体的な描写なんなの?」 実際に中学時代は似たようなことがあった。ちょっといいなと思っていた同じクラスの女子と仲良くなったまではいいが、「杉江君可愛い系だよね」だの「女子みたいに話しやすい」だの、挙句はっきりと「彼氏っていうより友達でいたいタイプだよね!」となんの悪びれもなく断言されてしまった。明確な恋が生まれる前で本当によかった。 そんな自分にまさか彼氏ができようとは、夢にも思わなかったけれど。 過去に思いを馳せながら、別府に読ませる文章を両手で必死に打ち込んだ。変換が面倒で平仮名が多いが読めないこともないだろう。 『そもそもなんでべっぴーは俺とひのかわのこと知ってんの』 『お前あれだけ日野っちのことで動揺しといて逆によく俺にバレないと思ったね?』 別府に携帯電話の画面を向けるとほぼ同時。こちらに向けられた画面には、さっきのご婚姻云々に代わりそんな文章が表示されていた。 さらに、彼がカーソルキーを操作すれば、また次の文章が表示される。 『急に仲良くなった時点でちょっとおかしいと思ってたよ? でもあまりに普通にしてるから俺の気のせいかもーとか思ってたのに、日野っち彼女疑惑の時機嫌悪かったじゃん? それに避けてる時だって、たまに日野っちの方ちらちら見て赤くなったりにやけるの我慢してすごい顔してたし。他の奴らならともかく俺が気付かないと思った?』 「うぇ、わ……うお……」 「エコ丸~顔赤いぞ~」 「もう内容は深く突っ込まないけどなんでこの長文が質問した直後に出てくるの……」 「多分聞かれると思って予め準備しておいたのだ~」 「さすが~勘弁してくれ~」 流れるように机に顔を伏せた杉江は、反射する自分の顔の温度にあてられそうになった。後頭部をぽんぽんと叩くのが正面に座る別府の手だというのはわかるが、その心情は相変わらず計り知れない。 「おーす。って、エコの奴朝から寝てんのか? もういっそ今日も休めよ」 「起きてるし」 「なん――顔赤えぞ!? 本当に休めよ!」 登校した沖野も、茶々を入れにわざわざ来たのだろうが、真っ赤な杉江の顔を見るなりおろおろと心配し出した。その優しさが辛いのだと口にしたら、また妙な誤解が広まってしまいそうだけれど。 「エコ丸顔をお冷やしよ」 「ひえぇつべたい!」 「何で保冷剤持ってんだよお前……11月も半ばだぞ」 「えっ聞いたエコ丸? オッキーが『半ば』なんて難しい言葉使ってるよ」 「テメェバカにしてんのか」 わざとらしい高笑いが肯定を意味しているのは、親友である杉江でなくともわかったらしい。 あからさまに不服そうに顔を歪めた沖野は、先の杉江よろしく別府のもちもちとした両頬をぎゅうと両手で挟んだ。 「ひょれはうゃっひぇんろ?」 「あんだって?」 「『それ流行ってんの?』だってさ。俺もさっき同じことやったから」 「何してんだお前ら」 「同じことしてる君が言うかね」 すっかり赤みの引いた顔でけらけら笑う杉江は、顔に当てていた保冷剤を沖野の手の甲に思い切りぶつけた。 体温で若干柔らかくなったとはいえ、11月の冷たい空気に晒された肌にトドメの一撃をくれてやる程度の冷たさは十分保たれている。 奇声にも近い悲鳴をあげた沖野はあっさり手を離し、解放された別府はわざとらしく杉江に泣きつく真似をした。 「ふえぇエコ丸~オッキーがいじめるよぅ~」 「ちょっと男子ぃ~べっぴー泣いちゃったじゃん謝んなさいよ~」 「うるせえお前らも男子だろうが!」 二人して沖野を小馬鹿にしつつ遊んでいると、いつもより少し遅い時間になって漸く日野川が登校した。心做しか元気が無さそうに見えたのは、杉江だけではないようだ。彼と挨拶を交わしたクラスメイトが「何かあった?」と尋ねる声が聞こえた。 「ちょっと朝飯作るの失敗して……」 「日野川が料理ミスるとか珍しいな」 「昨日も休んでたべな? だいじけ?」 「ちょっとぼーっとしてただけだから……心配ありがとな」 クラスメイトたちが日野川の体調を心配する中、一人だけ全く別のことを考えている男がいた。 ――そこでちゃんと「ありがとな」が言える俺の彼氏超かっこいいな 杉江だ。尤も、彼は日野川が昨日学校を休んだのが体調不良のせいではないと知っているから心配する必要が無いのだが。 皆の視線が日野川に集中しているのをいいことに、自分もその中に紛れて思い切り愛しい恋人を見つめた。熱の篭った目を細め、それはもう幸せそうな顔をして。 しかし、杉江は気付かなかった。その腑抜けきった顔を、親友に間近で見られていたことに。 「おはよう」 「はよ、宰。ダメそうだな」 「別にダメじゃあねえけど……」 「無理しちゃだめだよー」 「みんなして心配しすぎだろ」 困ったように、しかし満更でもないと言った顔で笑う日野川の正面。杉江の顔からは先のでれでれとした表情はなりを潜め、いつもの友達としての顔に戻った。 それが選択ミスであると気付いたのは、さっきまで小馬鹿にしていた沖野に指摘された後だった。 「ん? なんだよエコ、宰に怒ってたのはもういいのか?」 「へあ?」 しまった、という感情は顔に出して良かったものか。 そういえば、一昨日の放課後まで、杉江は日野川に対し、無関係の沖野が気まずくなるほどに冷たい態度を取っていた。その日の夜以降があまりに幸せで、完全に忘れていた。 関係を悟られないよう、いつも通りに振舞ったのは失敗だった。弁明しようにも、焦るばかりの脳内では上手い言い訳が思い浮かばない。 「……それがさー、オッキー聞いてよエコ丸超ウケんの」 「あん?」 「ちょ、べっぴー!?」 「一回日野っちを家に連れてったら妹ちゃんが超気に入っちゃったみたいでさあ。『お兄ちゃん、日野川さんて彼女いないの!? 次いつ来るの!?』って毎日のように問いただされて日野っちに八つ当たりだってよ」 突然の別府の助け舟に一瞬呆気に取られたものの、彼のさり気ない目配せに我に返るなり「そうそう」と便乗した。 「け、けどさ、よくよく聞いたら妹、日野川に料理教えてもらいたかっただけみたいで? 彼女の有無は『私が彼女さん差し置いて一緒にいたら悪いもん!』ってさ」 「あ、ああそう。それでこいつ、傘も刺さずに一昨日の雨の中うちまで走って謝りに来てな。風邪引いて、俺にもうつるっていう」 「お前のせいかエコ」 「面目ない」 へらへらと笑う杉江の愛想笑いを複雑な気持ちで横目に見ながら、日野川は沖野に気付かれないよう、小さく右手を挙げた。 それに対し、別府はにまにまと心底愉快そうな笑顔を浮かべている。友人の幸せを祝福していると言うより、二人の関係が面白くて仕方ないという風に見える。 感謝の気持ちは勿論あるが、素直に言葉にしたくなくなる笑顔だ。 「っと、そうだ忘れてた」 「何?」 「教室の前で先生に伝言頼まれたんだよ。別府、今日残って化学準備室来いって」 日野川から伝えられたその内容から、その先生を特定できたのだろう。別府は一瞬だけ表情を曇らせるも、すぐに元のへらへらとしたゆるキャラのような締まりのない顔に戻った。 「化学? 谷本先生?」 「いや、二年の先生じゃなかったと思うぞ? 見たことなかったし」 「それが何で別府名指しだよ?」 「補習じゃない? それと片付けのお手伝い~」 「そんな沖野君じゃあるまいし」 杉江の余計な一言に、沖野がその眉間に掌底を食らわせる。金切り声に近い悲鳴は、教室の雑踏に消えた。 「それがさぁ、この俺でも段々わかんないことは出てくるものでねえ。一年の頃ちょっとだけ頼ってた先生に、また見てもらってんの」 「あー、べっぴーは成績維持すんのも大変だもんね」 「確かに、大体学年五位以内はキープしてるもんな」 「成績少しくらい分けろや」 「ごめんねオッキー、分けるなら日野っちかエコ丸がせいぜいだわ」 今しがた杉江に食らわせた掌底を今度は別府に食らわせるつもりか、顔を歪めた沖野が右手をすっと上げた。それを慌てて止めたのは、ターゲットたる別府ではなく、その隣の杉江。 「違うんだって沖野君! もしかして知らないの? べっぴー特待生だから、成績上位キープしないといけないんだよ」 「と……特待生!?」 「別府が!?」 驚いたのは沖野だけではなく、沖野を宥めようとしていた日野川もだ。二人は顔を見合わせるなり、同時に別府に視線を下ろした。 二人の視線を集めた当人は、いつもと変わらない様子で、「いえーい特待生のトッキーだよ~」などと意味不明なことを口にしながらダブルピースを決めている。 「おいおい、冗談はよせよエコ」 「いくら成績がよくてもなあ……」 「成績がよいから特待生なんだよ日野っち」 「だから上位をキープしなきゃいけないべっぴーが沖野君に成績を分けることはできないんだよ。平均したら元の半分になっちゃうじゃん」 「なるほどなあ」 素直に納得してしまった沖野が、せめてHRが始まるより先に杉江の言葉の意味に気付きませんように。 そんな日野川の願いは無事に神に聞き届けられたのだろう。遠まわしに馬鹿にされた沖野が、杉江や別府に掴みかかることも怒鳴ることも、今回の件を原因として怒鳴り散らすことも今後なかった。 * 「今日さ、バイト休みなんだよね」 ざわざわと賑やかな放課後の校庭。一斉に校門へと向かう生徒達の中に、日野川と杉江も紛れ込んでいた。 昨日は休むわ今朝も調子が悪そうだわで、掃除当番を免除された日野川は、平然と「駅まで一緒に帰ろー」なんて言ってきた杉江と並んで歩いている。 それを言われた瞬間思わずにやけてしまったが、それはそれ。ここ最近のあからさまに険悪な雰囲気と、元々の杉江のマスコットポジションに助けられた。 「よかったな仲直りできてー」「お父さん嬉しそうだぞエコ」「もう喧嘩しちゃだめだぞ」と親戚一同のような台詞と視線に見送られて教室を出た。まさか既に恋人同士であるなどと、誰も思うまい。 「今日って工場じゃなかったか?」 「うん。昨日も一昨日もね。一昨日はミス連発して帰らされて、昨日は腰を押さえたり顔が赤かったりで、『明日は休んでいいよ』ってさ」 「……おれのせいかぁ」 どこか機械的な発音になってしまったのは、自分のせいで彼の大切な将来への資金を集める時間を削ってしまったことに大しての責任を感じたから。 と言うよりかは、自分の責任であることを理解しつつ、それ以上に昨日彼が腰を押さえ顔を赤らめた原因を思い出したことと、それが夢でなかったことを改めて噛み締めているから。そしてそんな自分への呆れも含まれる。 別府のような表情をしているのだろう、とどこか冷静な自分が自身の表情を予想している隣で、杉江がちらちらと辺りを気にしているのに気が付いた。 「どうした?」 「や……だから、その……うち、来る?」 頭の中で鳴ったのはクラッカーかラッパの音か。とにかく幸せな音には違いない。 周囲の目もある、脳からの電流で反射的に両手を上げて喜びそうになったのを強引に抑え込んだ。静かに深呼吸をし、ぶるぶると震える声帯を落ち着かせてからそれに返した。 「いいのか?」 「うん、ほら……妹にも会わせないと」 少しはにかんだ杉江の横顔。ああ別府よ、お前は神の遣いか何かなのだろうか。 「じゃあ、お言葉に――あ、いや。けど大丈夫なのか? 例のあいつ……」 「ああ、あの名前を呼んではいけないあの人?」 「名前も呼んじゃいけないのか……」 呼んではいけない名前を何と言ったか……そう、眞島惣一。あの男は杉江の中学の同級生の兄であるから、最寄り駅も同じなのではないだろうか。 バイトで帰る時間が遅くなるならともかく、下校時刻にそのまま直帰などして、待ち伏せなんかされてはいないだろうか? 名前を出さずとも、あの男の話になった途端その可愛い顔を凶悪に歪める杉江は、どこか不安気に日野川の質問に答えた。 「多分大丈夫。同じ学区内ではあるけど駅は違うんだよ。それにあの人、なんか俺が弱ってる時にしかちょっかいかけて来ないから」 「……弱みに付け込もうとしてないか?」 「あ、やっぱ思った?」 心做しか目の死んだ杉江は、それでも日野川に視線を寄越すと、すぐそこに光を取り戻した。 「それに、その……将来どうなるかわかんないしさ、今はちゃんと恋人だって言えないけど、家族に日野川のこと紹介したい」 「杉江……」 「って言っても、今日は父さんも母さんも帰ってこないから、妹と家政婦さんと猫くらいしかいないけど」 「はは、いきなり両親はハードル高いって」 杉江の気持ちが嬉しくてちょっと照れくさくて。校門を抜けて周りの生徒が少なくなったのをいいことに、二人して顔を真っ赤にしていた。 日野川は、母に杉江のことは話していた。杉江が初めて家に来たあの日、母の分として買って来てくれたケーキを本人に渡す際、「文化祭で汚した俺のワイシャツ、わざわざ弁償して持ってきてくれたんだ」という簡潔な説明をしただけではあるが。 それだけでも、母の中で「杉江」という息子の友人はかなり好感の持てる人物となったようだ。 そんな彼を、いつかは「恋人」として、ちゃんと紹介したいのだが――今はそれより気になることがある。 「……杉江、妹と何て? 聞き間違いじゃなきゃ『家政婦さん』て聞こえた気がするんだけど」 「ん? 家政婦さんだよ。あ、うち俺が小さい頃から両親共働きでさ、父さんは市議で色々集まりがあるみたいだし、母さんも弁護士で忙しいから。泊まり込みではないけど来てもらってんの」 杉江の家が金持ちなのは別府から度々聞いていた。が、ここまでとは思わなんだ。 成程家政婦を雇っていれば、杉江がろくに料理が出来ないのも仕方ない。などと強引に自分を納得させつつ、それ以上は深く突っ込まなかった。 「で、どうする? 無理にとは言わないけど……」 「行くよ。沖野にも、杉江の妹と俺が会ったことあるって言っちまったし」 「ほんと? えへへ、待ってね家に電話するから」 うきうきという効果音がこれ程までに似合う横顔をかつて見たことがあったろうか。仮にあったとしても、今目の前にある愛しい恋人の笑顔に比べたらどうということのないものだろう。ああ可愛い。 ふと、声を弾ませる杉江の隣で、彼の両親の話を思い返していた。 父は市議会議員、母は弁護士。どちらにせよ、長男である杉江が跡を継ぐことを、彼の両親は望んでいるのではないだろうか。 サラリーマンの父と看護師の母を持つ自分も、長男且つ一人息子である。後継だとか孫だとか以前に、世間の目を彼らは気にするかもしれない。 きっと一筋縄ではいかない。誰しもが祝福してくれるような関係ではない。そんなことはわかっている。 だとしても、自分の選択が間違っているとは思えない。 誰に何を言われようと構わない。時間をかけてやっと心を開いてくれた恋人を、色々なものを乗り越えて「どうしようもないくらい好き」だと言ってくれた彼を、他の全てを捨てることになったとしても手放したくない。 もう二度と、この背中を見失いたくない。 「日野川! 家政婦さんが、夕飯食べてくなら作るけどって」 「ん? ああ、じゃあお言葉に甘えて」 「おっけー。食べてくって!」 杉江家の面々には悪いけれど、杉江黄麻を幸せにするのはこの俺であると、いつの日か宣言させてもらおう。 「そんな野望を抱きながら、日野川宰はまだ見ぬ杉江父との対峙に備えるのだった……ってね」 化学準備室の窓際で、群衆の中から親友を見つけた別府は人知れずそんなことを呟いていた。 呼ばれた通りに来たここに、授業以外の目的で来るのは一年振り……いや、それ以上か。杉江と親友になったのは1年生の一学期末頃だったから、もう一年半近くにもなる。 だと言うのに、あの男のしつこいことしつこいこと。余程気に入られてしまったらしい。 いつものそれとなんら変わらない笑顔を浮かべ、別府は親友たちの背中から目を逸らした。 「何か面白いものでも見つけたのか?」 別府の視線が室内に戻るのとほぼ同タイミングだったろうか。人を呼んでおいて遅れたその男が何の悪びれもなく現れた。 そんなだから嫁に捨てられるのではないか。いや、彼の場合は家族に飽きたから敢えて浮気の証拠をちらつかせたんだったか。どの道、屑であることに変わりない。 「うーん、人がいっぱいいるなーと思って?」 「そりゃあいるだろう、下校時刻なんだから。相変わらず天然だな」 浅ましい。この整った顔でちょっと人とズレたことを言えばすぐに「天然」と結論付ける。それでこちらが喜ぶとでも思っているのだろうか。 しかしまあ、こちらも暇だ。暇になった。特にやることもなし、断る通りもない。 肌寒い化学準備室の薄いカーテンを閉め、別府はセーターを脱ぎ、ネクタイを緩めた。 「そんなのはいいからさぁ、早くやろうよ、先生?」 流石に何年もこうして生きてきただけのことはある。たった一年半のブランクでは、誘い方の一つも忘れられないようだ。 別府が肌色をちらつかせ、吐息混じりにテンプレートのような台詞を吐けば、化学教師は息をのみ、ぞくぞくと震える体で鍵を閉めた。 「久し振りに、俺の味を思い出してもらおうか」 「んふふ、また昔みたいに、たぁーっぷり俺のこと、可愛がってね?」 一気に距離を詰めた化学教師の首に腕を回せば、がっつくように唇を貪られた。割って入っては絡みつく舌には情緒など欠片もない。 それでも服の隙間から滑り込む手の温度を感じ、自然と体が熱くなる。内臓から熱を発するように、むずむずと上がる体温に比例して、次から次を欲してしまう。 この空間に理性など存在しない。ただ本能のまま、衣服を剥いで互いを求め合う彼らは獣と何が違うのか。そう問われても、返す答えは見つからない。 色っぽく、次を次をと催促する別府は、ぼんやりと考えていた。 ――あれ、そういえばこの先生の名前なんだっけ? 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