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15 June

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22 July

ECHO09:導火線の火はもう消えない

※BL※



 今の俺に何が出来るだろうか。それを訊ねたところで、答えてくれる人間など誰もいないし、その問いを聞いているのすら俺1人しかいない。
 それも当然だ、ここは俺の家であるし、母さんは夜勤で明日の朝まで帰ってこない。
 まあ、何と言うか、今日に限ってはいてくれなくて助かったと言うか……
 本日2度目の稼働音を轟かせる洗濯機の音に、微かだがシャワーの音が混じっているように感じるのは俺の気のせいか。普段、母さんが風呂に入っていてもシャワーの音なんか聞こえないし、気にしてもいないし……
 いやちょっと待て、どうしてそんなシャワーの音に過敏になっているんだ俺は。テレビも付けずに耳を澄ませて、変態か!
 いくら意中の相手が自分の家でシャワーを浴びているからと言って、流石に意識しすぎじゃあないだろうか。第三者にこの状況が知れたら確実に引かれる領域だ。
 震える手でリモコンを取ろうとするも、動揺し切った指先に上手く力が行き渡らず、カーペットの上に落としてしまった。
 鈍い音が「冷静になれ」とでも言っているように、頭にがつんと響く。そんなもの、なれるものならとっくになっている。
 リモコンを拾おうと、椅子に座ったまま上体を倒し……いっそ死んでしまいたくなった。
 腹部に当たっている。何がとは言わないが。主張するその存在は、俺がどうしようもなく単純で最低で、空気を読まない下心丸出し野郎だと宣言しているかのようだ。

「……トイレ行くか」

 誰に言うでもなくそう呟くも、我が家の構造上脱衣所を通らないとトイレに入れないことを思い出し、途方に暮れた。

 こんな状況に陥っている理由を説明するには、30分程時間をさかのぼる必要がある。


*


 学校から帰って数時間。家事も終わらせ、俺はただ1人頭を抱えることしかできなかった。
 ただでさえ今まで陥ったことの無い状況だというのに、別府からのサプライズプレゼントが余計に混乱を招いている。あいつ、何てことしてくれたんだ。
 何度目かもわからない溜め息を吐き、椅子の背もたれに頭を乗せた。1人だけの部屋は、一瞬完全な無音状態となった。
 静寂に慣れた耳は、少しずつ小さな音を拾い始め――その時初めて雨が降っていることに気が付いた。
 ついさっき干したばかりの洗濯物を想い出し、椅子を倒す勢いで飛び出すが――
 案の定、洗濯物は洗濯機から取り出した時以上の水分を纏っていた。なんだっていきなり雨なんか……いや、冷静に考えてみれば、俺が帰ってきた時点でかなり雲行きは怪しかった。平然とベランダに干した俺が完全に悪い。
 こんなことが母さんに知れたら長々と説教を喰らうに違いない。一気に気分が落ち込み、とぼとぼとカゴに詰めた、重みを増した衣類を洗濯機に押し込んだ。洗濯カゴは勿論、床も水浸しだ。ものすごく萎える。
 洗濯機のスイッチは後で入れればいいか。先に床を拭こう。
 洗面台の収納スペースから雑巾を取り出し、いざ掃除に取り掛かろうとした時だ。インターホンが鳴らされた。
 無視をすることもできず、雑巾を床に放置したまま、例によって足音を殺しドアに顔を寄せた。
 その向こうにいる人物を認識した途端、頭は真っ白になり、体が勝手に鍵を回しドアを勢いよく開けた。

「杉江……お前、どうしたんだよ」

 俺の問いに、杉江はすぐに答えを口にしなかった。それどころか、口を開いたまま瞬きを繰り返し、視線を泳がせて僅かに首を傾けた。
 こいつ、自分でわかっていないのか。適当な理由を探しているのか、眉間に皺を寄せてじっと考える素振りを見せている。

「えっと、その……あ、うんそうそう! 今日の事、謝ろうと思って……」

 明らかに今思いついたと言う顔でへらへら笑う。
 この馬鹿は、人を見くびり過ぎじゃあないだろうか。いくら作り笑いが特技と言えど、そんな不自然な笑顔に騙されるほどお前に無関心じゃあないんだぞ。
 喉から出かかった言葉を飲み込んだのは、目の前の杉江がとても叱れる状態ではなかったからだ。この雨の中、傘も差さずに走ってきたのだろう。頭のてっぺんから靴底まで余すことなく水を滴らせ、寒さに震えながらも上下する肩。笑顔の張り付いた顔は赤いんだか青いんだか白いんだか、一言で言い表せない色になっている。
 心配を通り越して沸いた怒りも次第に呆れへと変わり、最早感情が失われつつある。俺はまず何から言うべきだろうか、頭をかいて考えた。
 俺の心情を知ってか知らずか、杉江はこちらの返答も待たずして、矢継ぎ早に言葉を並べた。

「最近バイトが上手くいかなくてさ。ほら、俺掛持ちしてるからちょっと疲れ溜まってたのもあって。その所為で苛々してたんだよ。今日日野川に当たっちゃったのも、最近機嫌悪かったのもそれが原因なんだ。さっき考えてやっと理由がわかってさ。そしたらもう謝らなきゃって思ってね、本当ごめん!」
「……とりあえず、上がってけよ。風邪ひくぞ」

 真っ先に出たのがそれだった。正直なところ、後半はろくに聞いてもいない。嘘だとわかってる言葉なんて聞く意味も無いだろう。
 杉江の無理矢理な笑顔が引きつり、心なしか青みが増した気がする。

「え、い、いいよ、すぐ帰るし」
「いいから! 杉江が言いたくないなら俺も詮索しないから、せめて風邪ひかないようにして帰ってくれ」

 狼狽える杉江の腕を掴み、着替えを用意して強引に風呂場に押し込み、水浸しになった床を拭きドライヤーで鞄を乾かし終えた。その間は特に雑念の類は無かった……筈だ。
 洗濯機を回しに行った時なんて、薄いガラス戸1枚隔てた向こうに杉江がいたわけで。それでも俺はいつも通りでいられた。
 しかしどうだ、やるべきことを全て終えてしまえば俺はただの男子高校生。普通の友人として接しようとする意思とは裏腹に、馬鹿正直に反応する身体には笑いも起きない。死んでしまいたい。

 それで、俺に与えられた試練の件であるが。選択肢は3つある。
 1つはトイレに行くこと。ただし、先に言った通り、トイレに行くには杉江がシャワーを浴びる風呂場と接した脱衣所を通らなければならない。
 2つ目の選択肢は、部屋で抜く。ただし、これもかなり危険度が高い。部屋に鍵なんて付いていないし、杉江が風呂を出るのが予想外に早かった場合、最悪の場面で鉢合わせる可能性が高い。
 3つ目の選択肢。このままでいる。馬鹿か、どうしてこれを選択肢に加えた。その未来には死しかない。

 3つの選択肢――実質2択であるが――の全てのメリットとデメリットを脳内に並べ、最悪の事態を避けられる答えを導き出す。まあ、これが妥当だろうな。

 無駄に音も立てず、脱衣所の前で立ち止まる。無意味な深呼吸は、自分の鼓膜を揺らすほどの心音を落ち着けることも出来ず、逆により息苦しさを覚えるばかり。
 自然に、自然に。普段の自分を思い出せ。扉の向こうに沖野がいると思え。
 正真正銘ただの親友の姿を思い浮かべ、ゆるゆると持ち上げた右手でドアを叩いた。

「おき――杉江、悪いけどトイレ行かせてくれ」

 自然だ、自然な筈だ。思わず「沖野」と途中まで言ってしまったが、問題ない。今のはいつも通りの俺だった筈だ。
 2枚の扉を隔てた向こうから微かに声が聞こえた。何と言ったかまでは聞き取れなかったが、まあ、着替え中でないのなら入っても問題は無いだろう。
 僅かに開いた扉にすっと体を滑り込ませ、逃げるようにしてトイレに飛び込んだ。この先の事は――触れないで貰いたい。



*



 風呂から上がった杉江の顔からは、へらへらした作り笑いは消え失せていた。それはいいのだが、頑なにこちらを見ようとしないのは流石に凹む。いやまあ、最近の学校での態度を考えれば、こうなるのは予測できたことだったのだが。
 温かいコーヒーを目の前に置いてやれば、遠慮がちながらも口は付けてもらえたのが救いか。昼のこともあって気まずい雰囲気はあれど、冷静に考えてみれば、顔も見たくないと思われているのなら、こうしてわざわざ雨の中傘も差さずに我が家を訪れるということも無いのだろうが。
 安心からか、数分前の行為の所為か。どうも俺の精神には油断が生じていたらしい。テーブルを挟んで杉江の向かい側に腰を下ろすと、膨らませた風船から抜ける空気のように、勝手に口からこう出てしまっていた。

「で、何で傘も差さずにうちまで走ってきたんだ?」

 30分前の自分の台詞を思い出す頃には、もう問いは最後まで出しきってしまっていた。例の台詞を覚えていたのだろう杉江も、堂々と約束を破る俺に動揺を隠せなかったのか、口からコーヒーを溢していた。
 俺は自分の失言に、杉江は吐いたコーヒーで俺の服を汚したことにあわあわと挙動不審になり、そんな杉江に俺も更におろおろと立ち尽くす。この数秒間ほど無駄な時間も無いだろう。
 台所の布巾の存在を思い出した俺が、それを濡らして杉江に渡す頃には、その口から今度はくすくすと笑い声が漏れていた。

「何だよ、どこに笑ってんだ今」
「わかんない、何かデジャヴ感じて?」

 受け取った濡れ布巾で溢した部分を拭いながら、杉江はずっと笑っていた。その原因こそわからないが、久々に見た杉江のちゃんとした笑顔だ。このまま泣き出されたら文化祭の再現だな、なんて呑気な事を思ってはいたが、結局その場で杉江が涙を流すことは無かった。泣かれても困るけれども。
 正直な所、杉江に何があったのかは知りたい。が、「何も言わなくていい」と言った手前、強引に言わせるわけにはいかない。口が滑ったのだと正直に伝え、雨が弱まったら傘を貸して帰らせよう。服も、後日傘と一緒に返して貰えばいい。
 頭を掻いて、改めて椅子に座り直した。肝心なところで格好のつかない自分に嫌気がさす。

「悪い、さっきのは口が滑っただけだから、忘れてくれ」
「ううん、いいよ。いい加減俺も誰かにぶちまけた方がいいのかも。しんどかったんだよね、2年間誰にも言わずにいたの……それと」

 虚ろな目で自嘲気味に笑う杉江は、こう付け加えた。

「もう、俺のことは友達と思わなくていいよ」

 言い方からして、妹や別府にも言わずに仕舞い込んでいたことを、今初めて俺に話すのだろう。とすれば、何を言われようと、俺は黙ってそれに耳を傾ける義務がある。
 そう腹構えしたにも関わらず、杉江が吐露した過去は俺の許容範囲を大きく超えていて、話を聞き終える頃にはあんぐりと大口を開けてマヌケ面を晒していた。
 中学の頃、友達の兄貴に家庭教師のような事を頼んでいたこと。そしてそいつに犯されかけたこと。以来、杉江が落ち込むようなことがあると狙ったようにそいつが現れること。ここに来る前も、電車に現れたそいつに体をまさぐられたこと。傘も差さずに現れたのは、死にもの狂いで逃げてきた為のようだ。
 以前家庭教師がどうのとかいう話を出した途端、血相を変えて逃げられたのも、そのトラウマが原因だったか。
 辛い思いをしておきながら、それを誰にも相談しなかった杉江に対し、完全に矛先を向ける相手が違うとはわかった上で、それでも怒りを覚えずにはいられなかった。

「お前、何でずっと――」
「言えないよ。『暗い過去』なんて柄じゃあないし。そもそも思い出したくないんだから」

 それを言われると、こちらとしてもそれ以上責められない。が。

「だったら何で、今話したんだ」
「言ったでしょ、『もう俺の事は友達と思わなくていい』って。どうせもうバレてるだろうから言うけど、俺は日野川の事好きなんだよ。多分、恋愛的な方の好き」

 今の台詞だけを抜き出せば、なんて嬉しいことなんだと喜ぶところだろう。がしかし、杉江の表情と声音、更に話の流れから、それができる空気でないことはきっと沖野にすらわかる筈だ。
 案の定、俺が何かを言う暇も与えてくれず、杉江は非情にもこう続けた。

「マヌケにも変態に犯されかけて、未だに付きまとわれて、それでもへらへら笑ってさ。挙句、自分もホモとか頭おかしいでしょ……だからさ、お願い日野川。『気持ち悪い』って、『おかしい』って、俺を拒絶して。そうしてくれたら、俺もきっと目が覚めるから」
「……要は、お前の自己満足に協力しろって言うわけか」
「う……ま、まあ、そうなるよね」

 杉江がたじろぐほどきつい言い方になってしまったが、正直今のは俺は悪くないと思っている。
 要するに、こいつは自虐と現実逃避の為に、俺に自分を突き放せと言っているわけだ。この、俺が悩みに悩み、1人の旧友を傷つけてまで確信した感情を蔑ろにしろと。
 こいつが俺の気持ちに気付いているか否かはどうでもいい。と言うか十中八九気付いていないだろうが、そんなことは知ったことか。いくら大らかだの何だの言われているとはいえ、俺だって一介の高校生に過ぎない。そこまで考慮して、温和に話を進められる程人間できちゃあいないのだ。
 頭の中で、何かがぶちりと音を立てて千切れるのを感じた。

「そりゃあ杉江は、単純に見えて何考えてるかわかんねえし、思いのほかうじうじしてるし、すぐ自己完結して人に相談しようとしねえし、授業中は寝てるし運動音痴だし、挙句家庭科の授業は強制見学。ぶっちゃけマスコット的愛らしさに助けられてるけどお前相当面倒な奴だよ」
「おい誰がそこまで言えっつった」
「けど、そこも含めて好きになっちまったんだから仕方ないだろ」

 向こうが先に自棄になって口走ったのだから、こっちも感情任せに好意を伝えた。冷静に考えるとお互いこれ以上ないほど酷い告白ではあるが、俺としては隠していた感情を外に出せたことで、何となしに肩の荷が下りたような気になっている。苛立ちも多少なりともましになった。
 一方で、予想外の告白に目を丸くした杉江が微動だにせず空を見つめている。目前に俺がいないかのよう――と言うより、杉江自身がこの世から一線引いてしまっているようにも思える。そうはさせるか。

「杉江。おい、杉江」
「……? 俺は今夢を見ていた……?」
「俺がお前のこと好きってことなら現実だ、帰って来い」

 改めて口にすれば、喉の奥から熱が込み上げてくるような体温の上昇が感じられた。それでもまだ冷静さを完全に失わずにいられるのは、俺なんかよりもずっと赤い顔の、それでいて動揺を隠しきれていない杉江が目の前にいてくれるおかげだろう。
 両手でも隠しきれない赤を押さえ込むように、椅子の上に立てた膝に頭を押し付けた。喉の奥に籠り切りのうめき声が微かに聞こえ、いかに俺がこいつの思惑通りに動かなかったかが計り知れる。
 混乱しているうちに一気にカタを付けてしまおうか。普通なら褒められた手段じゃあないが、今の杉江は落ち着かせると途端に逃げ出しかねない。それで何も無かったかのように、明日また学校でへらへら笑って「いつも通り」を演じるのだろう。それから先は、ただの友達ごっこでしかない。
 全部無かったことになんぞさせてたまるか。

「言ったよな、杉江。俺の事好きだって。じゃあ、俺とお前は両想いってわけだ」
「い……いや、ちょっと待ってよ、整理できてない、なんもわかんない」
「だから言った通りだって」
「だ、だって俺――お、俺! さっきお前んちの風呂場でぬ……抜いた!!」

 顔真っ赤にして何を言い出すんだお前は。

「あれだよ冷静になれよ。日野川が俺を好きっつってんのは、友情プラスそのマスコット的愛らしさってやつに惑わされてるだけだよ! ……あの変態に触られて反応したのが癪で、でもなんとかしなきゃって……したら、お前が急に声かけてくるから……お、俺だって人間です健全な青少年です、可愛いだけじゃあない」
「落ち着け、お前が冷静になれ……じゃあ言わせてもらうけどな、俺もお前がうちでシャワー浴びてんのに興奮してさっき抜いたぞ」
「お前も何言ってんだよ」

 流石にこれは口に出してから後悔しか生まれなかった。まあ、お互い同じことをしている以上引く権利も責める権利も無いのだが。

「……落ち着こう、一旦落ち着こう」
「お前の方が混乱してるぞ……まあ、あれだな。お前が強情と言うか、往生際が悪いのはよくわかった」
「人聞きの悪い」
「まあ、何だ。そろそろお互いのためにもはっきりさせよう」

 後々冷静になってこの時の俺の言動を思い返すと、大変理解に苦しむ。ただ、杉江の煮え切らない態度に苛立っていたのと、手に入らないと思っていたものがすぐ目の前にある事に気付いてしまい、焦っていたのだろう。
 ろくに後先考えず、俺は手っ取り早く決着を付ける為だけの言葉を口にしていた。

「試してみようぜ」
「はい?」

 短い放心の後、杉江は一瞬前の台詞が自分の聞き違いであったことを願っているのだろう、両耳を軽く叩いた後、改めて聞き返した。

「あの、日野川君? 僕は今しがたストーカーに痴漢されて命からがら逃げてきたところなんだけど……何て言ったのかな?」
「だから、試してみようぜって」
「何を」
「セックス」

 いい加減色々な感情のキャパシティが大幅に超えたのだろう。杉江は頭をテーブルに叩きつけ、その後も何度かがつんがつんと額をぶつけている。
 考えがまとまったのか、ゆるりと起き上がった杉江は涙に潤んだ目で俺を睨みあげた。

「お前どういう神経してんの!?」
「お前が人の気持ちにケチ付けるからだろ!」

 またも攻撃的な言葉をチョイスしてみれば、弱々しく「それは、悪かったけど……」とだけ返答があった。

「杉江が言うように、俺が勘違いしてるってんなら何もできないだろ」
「俺の意思は?」
「嫌だって言うんなら本気で拒否してくれ。そしたら大人しく諦める。俺はそのストーカー野郎とは違う。杉江が死ぬほど嫌がることは絶対にしない。まあ、今信じろって言っても無理だろうけど」

 まっすぐ杉江の目を見て言う。見返してくる切なげな瞳は、逸らさないのか、逸らせないのか。それは俺の知れるところじゃあない。この先どうなるかも、杉江の反応次第だ。今度こそ嘘は言わない。杉江が嫌だと言うのなら、もう俺から出来ることは何もない。そうでないのなら――テーブルの上で手を組み、返答を待つ。
 視線の先ではくはくと動く口は、それでも何も出てきやせず、あっけなくぐっと噤まれた。テーブルの上で握られた拳がふっと緩まれば、そっと腕を伸ばし弱々しく俺の袖口を摘まむ。

「……そんなん、ずるいよ」

 縋るように見上げる視線は、杉江本人の意思とは無関係だろうが、俺の鼓動を早めるには充分すぎる効力を持っていた。
 息を呑み、今度は無意識に釘付けになった視線の先で、杉江の手を俺の手で包む。

「決まりだな」

 もっと優しくしてやれなかったかな、なんて甘い考えが、今更になって後悔を生んでいた。

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